海蛍 14

文字数 2,253文字

 日向が宿に戻ったのは、仲居がそろそろ暗くなるのに、いつまでもそのままだった薫の部屋を気にして明かりを灯しに来てすぐのことだった。心細くなっていた薫は勢いよく立ち上がると日向の前に詰め寄るように立った。
「どうした、何かあったのか?」
見知らぬ土地で一人きりにされ、相当心細かったことは薫の表情を見てすぐに理解できた。
「大佐の任務は……」
「あぁ、無事に終えた。後は……お前のご機嫌を直してもらえるように、早急に策を講じないとな」
日向の笑顔に、自分に余裕がなかったことに気付き、薫の顔は見る見るうちに赤くなった。
「じっ、自分はそんな、い、いや」
「風呂もまだなんだろう?飯の前に一緒に行くか?」
「はい」

 任務を終えた日向は淡々と風呂の準備を始める。薫も下着や身の回りのものを手に支度をする。支度をするふりをして日向の横顔を何度か見た。数時間、離れただけで不安と恐ろしさで押しつぶされるかと思えた。そして、日向が戻って来た時の安堵感は何にも例えられないほどだった。既に自分には失うものはないと思っていた。しかし、日向と出会ってその考えは変わった。この人がいるから自分はどんな目にあっても、先に光を見出しながら生きていられるのだ。それは、自分から日向がいなくなれば、自分の魂も肉体も一瞬で朽ち果ててしまうことでもある。姉の敏子も今の自分のような気持ちで、日向を見つめていたのだろうか。日向が姉を抱かなかったのは、敏子に対して穢れを感じていたからなのだろうか。それなら、好意を持ってしまった自分はどうなのだろうか。同性であり、自分もまた男たちに穢されて……
「あ」
風呂支度をしていた薫の手が止まる。そうだ、自分の身体にはまだ消えない無数の痣や傷が生々しく残っているのではないか。こんな場に来てまで、それを日向に見せるなど、自分がいかに穢れた存在であるかと更に見せつけるようなものではないのか。それも、他にも客はいる。同行している日向が何と思われるかまで考えると、薫の心からは浮かれた気持ちなど一気に消し飛んでしまった。支度をしていた手が震える。
「あの、自分は疲れが出たのか体調が悪くて……申し訳ありませんが、日向大佐、先に大浴場へ行ってくださいませんか」
調子悪げに薫は視線を落とすと、その場へ腰を落とした。
「お前が大浴場がいやというなら、無理に行かなくともいい。その調子じゃまだ、ここを見てないんだろう。ほら、こっちへ来て見ろ」
薫の視線を受けながら、掃除道具でも入っているかと思った扉を日向が開ける。
「わぁ……」
そこにあったのは、小さいながらも各部屋にある個別の風呂だった。街より一足早く日が暮れた空には、満天の星が諸手を広げるかのように、暗さと共に輝きを増してくる。カチッと小さな音と共に、部屋の明かりが日向の手で消された。
「いつも落ち着かない兵舎の風呂。たまには星の瞬きを頼りに風呂に浸かるってのも悪くはないだろう」

『この人は自分の苦しみも悲しみも知ってくれている。
 知っているからこそ、自分を同伴してここにまで連れてきてくれたのだ。
 そして、傷が見えないようにと、ここまでしてくれて……』

 もしも心が器でできているのならば、自分の日向への気持ちはもう止められないほどに満ちてあふれていると思った。


 傷に障るだろうとぬるくした湯に、日向は先に肩まで浸かった。掛け湯をして闇の中、薫も続いて湯に足を入れた。それでも体温よりも多少高めの湯は、薫の受傷した部分に容赦なく痛みとして心と身体の中にまで踏み行ってくる。闇の中、顔を顰めながらどうにか肩まで入った。湯が流れ出る音が止まると同時に、気まずさが心の中にあふれ出す。日向の裸体を見ないように、そして、この無残な身体を日向に見られないようにと気遣いながら、薄い湯けむりの中で薫は祈るような気持ちで湯に浸かる。
「あの、明日の任務は?」
静寂が怖くて、思いついたままの言葉を考えることなく薫は口にした。薫の言葉に日向は閉じていた瞳を開くと、空に視線を向ける。まるで視線で星座を繋いでいくかのように、日向のその瞳は頼りなさげに揺れていた。
「実は任務は今日ですべて終えてしまったんだ。で、非常に困っているんだ。明日はどうしようかと、な」
子供のような表情で日向が笑った。
「では、明後日の帰還を明日へと変更しなくては。あ、自分がこれからでも駅に出向いて明日の切符を……」
浴槽から立ち上がろうとする薫の腕を日向が掴む。
「お前は本当に愚直なんだな」
「わぁっ」
日向に掴まれ、薫は再び湯に沈む。
「橋本衛生兵に任務を命じる」
日向の声のトーンが変わり、薫の表情が引き締まる。湯の中でふたりは顔を見合わせる。
「ここから一里ほど行った所に川があった。明日、日向・橋本両名はこの川に敵兵が潜んでいないかを偵察に行く。尚、我々が軍人とわかってしまっては敵も出ては来るまい。明日は地元住民の風体で釣りを装い任務を遂行することとなる。いいな?」
思いもよらぬ日向の言葉に薫は驚き、目を何度も瞬かせた。
「敵兵って、こんな山奥に敵兵なんているはずが」
「橋本衛生兵、復唱はどうした?」
日向は低音の命令口調で問いかける。今までののんびりとした雰囲気は一転した。
「は、橋本衛生兵は、地元住人の…風体で、川…で釣りの…その、あ…」
混乱する薫に
「要約すると、明日はふたりで釣りだ」
と、言うと日向は薫に、今日何度目かの笑顔をくれた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み