海蛍 52

文字数 3,673文字

 鞄ひとつ握りしめ、終戦を迎えた東京へ薫は降り立った。

田舎で生まれ育ち、軍港のある地方で入隊し出兵した薫にとって初めての東京の姿は鮮烈だった。
アランと共に過ごした戦勝国の田舎町とは異なり、多くの人々が目を血走らせ明日だけを見つめ犇めいている。その活気に気圧されそうになる。
戦争に負けても、空襲で焼け出されても、この国の民は生きるために貪欲だった。
日向と共に生まれたこの国に戻り、日向の意思により今日からひとりで生きていく。
薫は手にした鞄の持ち手をグッと握りしめた。

 様々な手続きが済むまで薫は真木の自宅で滞在することとなり、ひとり身の真木の住む二間の小さな借家に、薫は転がりこんだ。

「ちょっ、ちょっと、待ってください!
確かに依頼者の意思を尊重することは、弁護士として基本ではありますが……」
諸手続きに奔走し数日が経った日の夜。薫の言葉に真木は思わず裏返るような声を出した。

真木は東京に戻るとすぐに、戦死公報の出ていた薫の戸籍を復活させた。
弁護士の介入で戸籍はすぐに復活できた。
戸籍さえ整えば、これからすべき諸手続きは円滑に進む。
薫を日向姓にして、日向の残した資産を薫に渡るように、そして、薫が望む医科大学へ進学できるように支援を行うなど、真木は東京での仕事の段取りを早々に決めていた。が、この夜、薫が口にした希望は、真木の想像を超えるものであり、冷静なはずの真木は思わず上ずった声を出してしまったのだ。

「えぇ。それが私の希望です。日向艦長が生きておられたら……
あの方はきっとご自分のためにこの資産は使うことはなかったはずですから」
薫はそう言うと笑みを浮かべた。
「確かに日向は金や物に執着するような人間ではありませんでした。
だからこそ、あなたにこれだけのものを残した。
でも、それは戦後の荒廃したこの国で、あなたが少しでも生きやすくしたいが故の日向の思いだったはず。それを……」
薫は日向の残した土地を含む動産・不動産のすべてを売却し、その金の殆どをアランを通して自分を育んでくれたあの田舎町に寄付すると、想いを口にしたのだ。
「日向艦長は私利私欲で物事を考える方ではありませんでした。
そして、私を助けてくれたあの町の人たちも同様でした。
だからこそ、私に医科大へ進めるほどの知識や教養を惜しむことなく与えてくれました。地場産業もない貧困と共に暮らす人々が、敵国だった私に生活費を切り詰めてまでして医学を学ばせてくれようと動いてもくれました。あの町の人々が安心して暮らせるようになること、それこそが日向艦長が願っていた理想に近づくことなんです」
「しかし!戦後のどさくさで地価は日々天井知らずに高騰し続けていることは、あなたもおわかりでしょう?日向があなたへ残した総資産は現時点で田舎の小さな村の年間予算にも匹敵する金額になる訳で……」
「そんな大切なお金だから、私個人が私利私欲でどうこうしようなんて考えてはいけないと思ったんです。大丈夫、私には日向艦長が身を挺してまで護ってくださったこの身体があります。日本へ戻る道しるべを作ってくださっただけで、私は満足です。
敗戦で何もかもを失った他の遺族と共に、私も身体一つで立ち上がり生きていきます」
薫の強い意志に真木はそれ以上の反論をすることはなかった。

煩雑な手続きを経て暫くの後、裁判所から薫が橋本から日向姓に変更されたと通知が来た。
日向の思いの詰まったその書類を薫は胸に抱く。
礼を言うべき日向がそこにいなかったことが、ただただ悔しかった。

その夜、真木はどこからか日本酒を手に入れ帰宅した。
「日向薫君の前途に幸多いことを、心から祈ります」
そう言いながら、ふたりは酒を汲み交わした。
真木、薫、その横には主のない座布団と盃に並々と注がれた酒。
真木の心遣いである祝いの席。
と、その時だった。

『高砂や この浦舟に 帆を上げて この浦舟に帆を上げて
月もろともに 出潮(いでしお)の 波の淡路の島影や 遠く鳴尾の沖過ぎて
はやすみのえに 着きにけり
はやすみのえに 着きにけり
四海(しかい)波静かにて 国も治まる時つ風

枝を鳴らさぬ 御代なれや
逢ひに相生の松こそ めでたかりけれ
げにや仰ぎても ことも愚かや
かかる世に住める 民とて豊かなる

君の恵みぞ ありがたき
君の恵みぞ ありがたき』


真木が背筋を伸ばし、瞳を閉じて厳かに謡い始めた。
薫の胸の奥から熱いものが込み上げてくる。
そう、真木は日向と薫の想いを知るただ一人の理解者として、この時をふたりの祝言としたのだ。

日向と巡り合えたことが幸せだった。
ただ、遠くからでもその姿を見つめていられるだけで幸せだった。
自分を視界に捉え、話し掛けてもらえることが幸せだった。その声を聴けることが幸せだった。
自分の思いを真摯に受け止め、自分が日向を思うのと同じくらいに愛してもらえることが幸せだった。しかし……

自分が日向を思う気持ちは誰にも負けないと思っていたが、実は日向が自分を思う気持ちの方が遥かに大人で深いものだったのだと、日向を失った今、薫は気付いた。様々なことがこの身に起きてなお、自分はこうして生かされている。
夫(日向)のいない婚礼の席。けれども薫には確かに見えていた。
純白の軍服を着て、背筋を伸ばし共に恭しく高砂を聴く日向の姿が。
凛々しいその横顔に薫は心を奪われる。
残された人生を日向を想い偲びながら生きていく決心を薫は改めてした。
「ありがとうございました」
謡い終えた真木に薫は、両手をついて深く頭を下げた。
「あなたは日向が選んだ大切な人です。これからも、よろしくお願いします」
真木もまた、薫に向って手をつき深く頭を下げた。


 土地は戦後復興の名のもと、最終的には真木の想像を遥かに超える金額で売買された。骨董の類も売買の意思を示した日から問い合わせが殺到し、数日の間にそれらは現金の束へと姿を変えていた。
そこから薫は固辞する真木へ弁護士として自分と関わり、これまで掛かったであろう金額にかなりの上乗せをして報酬として手渡した。
「これは元々は私のものではありません。何より親身になってこれだけのことをしていただいたんです。
日向艦長がおられたら、きっと同じことをされていたに違いありません」
幸せそうに日向の名を口にする薫の姿に、真木は深く頭を下げると過分過ぎる報酬を受け取った。薫は僅かな金額を自分の懐へ忍ばせる。
これから自分を生かす元となる日向の思いのこもった金だ。
そして残った大金は真木を通じて、アメリカのアランの元へ送金された。
当時、海外への送金には多くの制限があったが、敗戦国の一個人から戦勝国への自治体への寄付はアメリカ政府から好意的に解釈され、思うほどに煩雑な労苦もなく手続きを終えた。
薫は送金に関わる事実と希望をアランへ手紙にして送った。
日向の平和を願う思いが海を超えて広がっていく。薫に一切の悔いはなかった。

「で、薫さん。これからのことですが……」
真木が鞄から資料を取りだし、新たな話題を向ける。
「海軍遺族が受験できる医科大学及び医学部の一覧がここにあります。
次の1月受験を考えておられるのならば、そろそろ志望する大学を決める必要があります。願書作成などは私が行いますが、既に決められている大学はあるのですか?」
縁側からじりじりと西日の射しこむ部屋で、真木が薫に問いかけた。
「受験……ですよね。もう、決めていなければならないんですよね。
もしも希望が叶うのならば、私は京都にある医科大をと考えています」
「京都、ですか?」
想定し得なかった地名に真木の声は僅かに上ずった。
そして、一呼吸すると改めて問いなおした。
「京都とは思ってもみませんでした。で、何か伝手でもおありなんですか?」
「いえ、私は自分の生まれた土地と入隊した軍港のある街、そして今いるこの東京しか知りません。ただ以前、日向艦長と京都を訪ね歩きたいと話したことがありまして……それだけなんです」
薫はそう言うと恥ずかしそうに微笑む。
「自分で自分の人生の選択をするなんて初めてで嬉しさ半分、緊張半分です。
アメリカでアランから学んだことを生かせば、合格できると信じています。
これから受験までは死ぬ気で勉強をします。日向の姓を穢すことのないように」
未だ日向の姓を口にする時、薫は恥ずかしそうに視線を下げる。
戦艦に乗りこみ太平洋上で地獄を見てきた兵士とは思えぬ初々しさに、真木は何かホッとしたものを感じる。
「わかりました。では、受験に必要な手続きは私が致しますので」
真木が書類を手に立ち上がり背を向けた時。
「真木さん……」
僅かに躊躇った後、薫は真木を呼び留める。
「はい?」
「実は……私は、あの……今週末にここを出ることにしました」
背中越しでの薫の突然の申し出に、真木はしばし言葉を失った。
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