海蛍 7

文字数 1,682文字

 余程安堵したのだろう。次に目覚めた時、窓の外は既に闇に包まれていた。困惑し彷徨う薫の視線が捉えたのは、机に向って姿勢を正して書き物をしている日向の後姿だった。
「申し訳ありませんっ!」
部屋の主でもある上官の日向を差し置き、何時間もベッドを占有していたことを悟った薫は冷汗の中、飛び起きた。もう眩暈はなく、辛うじて直立不動を保つことが出来ていた。
『弛んでいるぞ!』
そう言われて殴られることを覚悟し、奥歯を噛みしめ腹に力を入れた薫に
「腹が減ったろう」
と、日向は食事の乗った台を指さした。冷めてはいたが、それは薫のような一兵卒が食するものとは明らかに違う豪華なものであった。日頃の自分にはあり得ない食事を前に、不覚にも薫は生唾を飲み込んだ。その嚥下する音が日向の部屋に恥ずかしいくらいに響く。
「腹が減っただろう。私は今日、外出した際に食べてきて食事をする必要はない。暖かなうちに起こして食べさせようとも思ったが、橋本衛生兵には食事よりも睡眠の方を優先すべきだと判断した。冷めてはしまったが、食べた方がいい。空腹は身も心も空しくさせるからな」
最愛の姉を失ったと同時に現れた自分を慈しんでくれる日向の存在は、絶望へと滑落寸前だった薫に生きたいという思いを沸かせ始めていた。

生まれてからこんな贅沢な食事らしい食事などしたことがなかった薫は、日向の厚意を一口ずつ味わいながらそれを食した。日向はそんな薫の姿をまるで肉親のように見つめた。

 日向は薫より十三歳年上で未婚、自分のような者を大佐にしなければならない程に今の戦局が苦しいのだと笑った。空襲で身内すべてを亡くしたと、窓の外の闇に目をやる日向の姿に薫は思わず姉を亡くした自分の姿を重ねて見た。
「自分は……」
薫は幼い頃からの身の上話を始めた。自分を包み込むような眼差しで薫の話に耳を傾け頷く日向に、気づけば姉がこの土地の遊郭に売られ自死したことまでもを話していた。ふと我に返り見上げた日向の顔は苦渋に満ちていた。旧家に生まれ帝国大学を出た、まるで神に選ばれたかのような日向と、あまりに身分の違いすぎる自分。日向に情けなさすぎるすべてを話てしまったことに気付き、薫は話を途切らせ黙り込んだ。遊郭に身を売った姉の存在を、この上官には異次元の穢れにしか思えないだろう。それでも、言わなければならない言葉があった。大好きな姉の名誉のために。
「姉は素晴らしい人でした。自分は姉を誇りに思います」
思いのすべてを語り終えた薫。しかし、日向の口は閉ざされたままだった。高潔なこの人は、明日から自分の姿を目にしてももう、その存在さえ無きものとするのだろうと漠然と思った。けれども、僅かな時間、自分は確かに救われたし幸せだった。貧困、姉の身売りと自死、どんなに足掻いても学のない貧しい小作人の息子である自分と日向に生きる中で交点などあるはずがなかったのだ。そう、今までも理不尽な人生を納得してきたのではないか。日向に与えられた夢から覚める時が来たのだ。薫は立ち上がると日向に向けて姿勢を正した。
「本日、日向大佐から受けたご温情。自分はこの身を散らせても忘れることはありません。ありがとうございましたっ!!」
思いの丈をこめて薫は直立不動で日向に敬礼をする。ふと痛みを感じたのは殴られた傷ではなく、すべてを知った日向とは二度とこの様な時間を持てないであろう心の疼きだったのだろうか。食器を手に部屋を出ようとした時だった。
「こんな時世に生まれてしまったこと、誰もが辛く苦しく思っているだろう。如何なることがあろうとも、夢だけは捨てるな。そして、誰よりもお前を思い尽くした姉上を誇りに思いなさい」
思ってもいなかった日向の言葉。持っていた空の食器に涙がいくつもこぼれ落ちる。先輩たちにどんなに酷い仕打ちを受けても、敏子が亡くなっても泣かなかったと言うのに、涙腺が崩壊したかのように薫の頬に涙が伝う。
「私も天涯孤独の身。もし良ければ、これからも話し相手になってはくれないか」
薫が日向に特別な感情を抱いた瞬間だった。
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