海蛍 2

文字数 1,329文字

 田舎の農村の貧乏小作人の長男として生まれた薫。4歳年上の姉、敏子は聡明で優しく美しい人だった。小作人の息子には分不相応だと反対された小学校へは、姉と共に睡眠時間を削ってでも家業を手伝うことを条件に、週に何度か通えることが許された。薫の成績は優秀で、町の中学への進学をも勧められたが、その日暮らし同然の小作人の息子には夢というにも憚られる程に遠いものだった。

「薫は将来、何になりたいの?」
畑からの帰り道、姉に問われた薫は俯いたまま立ち止まる。
「小作人の子は小作の後を継ぐしかないよ」
問いかけた姉の目を見ることも出来ぬまま、薫は自らに言い聞かせるかのように答えた。
「小作人だって夢見るくらいいいじゃない」
荒れた血の滲んだ手で、敏子は薫の頬に触れその顔を自分に向ける。
「…医者になりたいんだ。金が無くても、小作人でも診てくれる、そんな医者になりたい」
人目を忍ぶように、その言葉が罪深いものであるかのように声を潜め答える薫に敏子は微笑んだ。
「薫は頭がいいから、きっとお医者になれるよ」
「中学にも進学できないのに、医者になんてなれるはずない」
朱に染まった空の下、涙をこらえ駆けだした薫の後姿を敏子はただ黙って見送った。
それからひと月後、学校から戻った薫は娘らしい花柄の着物を来た敏子の姿を生まれて初めて見た。自分の姉がこんなにも美しかったことに言葉を失いながらも、その姿を眩しそうに見つめる薫。
「どうだ、お前の姉ちゃんはべっぴんさんだろ?街で一、二を争うぐれぇのいい女郎にきっとなれるさ」
背後から聴こえた悍ましい言葉に、冷水を浴びせられたかのように総毛立つ薫。
「姉ちゃんは女郎になんてならない、なるものかっ!」
そう叫ぶと同時に、日に焼けた大きな手が薫の頬を思い切り打ち付ける。小柄な薫はいともたやすく土間へ弾き飛ばされた。
「俺たちは、どこかいい家の女中奉公の口でもあればと思っていたのが、敏子が自分から女郎屋に行きたいと言ったんだよ。お前、小作の倅の分際で、中学に行きたいなんて言ったらしいな。敏子は身を売ってでもお前の学費を稼ぎたいと言ったんだ。いいか、すべてを決めたのは敏子本人だ。ロクに稼げねぇ奴が、偉そうな口を叩くんじゃねぇ!!」
女衒から受け取った金を手に、薫を殴り声を張り上げたのは父だった。
「薫、姉ちゃん頑張るからあんたも頑張って。大丈夫。寝るところも食べることも間違いないって言ってくれるし、薫の夢が叶うことが私の夢でもあるから……」
笑っている敏子の目から涙があふれる。
「やだ、やだっ!姉ちゃん一人を助けられずに、どうして医者になって他人を助けることが出来るんだよ!俺、夢なんていらない。今すぐ捨てる。だから姉ちゃん、お願いだからここにいて……」
敏子の足にしがみ付く薫を引き離そうと、父が薫を殴り蹴る。痛くても苦しくても敏子の足を薫は決して離そうとはしなかった。
「このクソガキがぁ!」
次第に痛みが遠のいていく。心のどこかで『これが死なのか』と思いが過る。
「かおる、かおるぅ!!」
悲しみに満ちた敏子の叫び声を聴きながら、薫の記憶はそこで途絶えた。翌朝、目覚めた時には既に敏子は遠い街へと旅立っていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み