海蛍 18

文字数 3,642文字

 翌朝、気持ちの良いほどの青空の下、ふたりは釣り道具と女将が手渡してくれた弁当を手に宿を後にした。無論、昨日の敵兵偵察は日向の言い訳であることを承知で、薫はただ楽しむことだけを考え日向の後を歩いた。途中、道らしきものも消えて鬱蒼とした草をかき分けながらも押し進むと、微かに川のせせらぎが聞こえてきた。そして、背丈ほどの草を更に押し別け踏み入ると視界が一気に広がった。
「うわぁ」
真っ先に声を上げたのは薫だった。そう大きくはないが、穏やかに流れる透明感のある水面が朝日を受けて輝いている。辺りを見回しちょうどふたりが座れるほどの石を見つけた日向は
「あそこにしよう」
と、指さしながら振り返り薫を見る。薫は嬉しそうに「はい」と言うと日向の後を歩く。
 鳥のさえずりを聞きながらふたりは並び座ると釣り糸を垂らす。ここへ来るまでの汽車の席で日向の身体に付くくらい密着をしたが、あの時はまだ多くの乗客もいて軍服を纏っていたこともあり、どうにか自制心を保てた。しかし、今日は周囲には人はおろか小動物さえ気配がない。隣で平然と釣り糸を見つめる日向の息遣いを感じるだけで、自分の大きくなった鼓動が日向に聴こえてしまうのではないかと薫は気が気ではない。日向の釣り糸が川の流れに合わせて揺れるのに対して、薫の釣り糸は手元が震え絶えず小刻みに揺れる。握り方を変えて見たり深呼吸をしてはみるが、隣に日向がいる限りそれらの行為は何ら意味をなさない。
「釣りは初めてなんだろう?正しい方法なんてないさ。お前のやり方で、自由でいいんだ」
視線を動かさないまま日向が言った。
「でも、せっかくここまで来て何の釣果もなかったら……」
今度は釣竿を長めに持ち直し薫は答えた。
「確かにそんなに糸を揺らしたら、これは釣りだと魚に教えているようなものだな」
日向は堪えきれずに笑いだす。改めて自分の不器用さを日向の前で曝け出してしまったことが恥ずかしくて、薫はついに俯いてしまった。
「でもな……そんなお前だから釣られてやろうかって殊勝な魚も、この広い世の中にはいるかも知れないぞ」
「そんな魚いる訳ないじゃないですか。餌はおろか、人並みな釣り道具も無くて。精々、自分が落ちて魚の餌になるってことならあり得るかも知れませんが」
薫は自虐的に笑う。
「釣りの極意は俺には分からんが、ただお前が海に落ちたのならば俺は魚の餌になる前にお前を連れ戻しに行くだろうな」
日向の言葉に薫は驚き、手の震えが止まった。と、同時に手にしていた薫の竿が大きくしなり、惚けていた薫が放しそうになっていた釣竿を日向は慌てて掴む。薫の手を覆うように大きめの日向の手が薫にその熱と鼓動を伝える。
「いいか、すぐに引いてはだめだぞ。もう少し待つんだ、いいな」
日向は自分の釣竿を放り出すと、薫の背後から釣竿を一緒に掴んだ。
「魚が、魚が逃げてしまいます……」
「焦るから逃げられるんだ。どうしても手に入れたいからと強引にことをすすめようとするから。もう、逃げられないというところまで待て。いいか、欲しいものはこうして手に入れるって覚えるんだ」
耳元で日向の囁きがあまりにも生々しすぎて、何の会話をしているのかわからなくなりつつある。
「力を抜いて、俺に任せておけ」
「……はい」
数分後、釣れたのは大きな川魚。石の上を尾びれをバタバタさせて水滴を飛ばしている。
「橋本、やったじゃないか!俺でさえこんな大物を釣り上げたことはないぞ」
日向はそれを見ながら子供のようにはしゃぎ笑った。
「私は釣り糸を投げ入れただけです。後は日向大佐がいなければ……」
日向との距離があまりに近すぎて動転している自分を鎮めようと、薫は冷静に言葉を返す。
「なぁ、橋本。釣りに拘らず、人とは何もかもすべてが整わないと生きることは難しいと思うか?」
しゃがんで暴れる魚の口から釣り針を取りながら、薫に背を向けたまま日向が薫に問いかける。
「自分にはわかりません。ただ、丸腰の者が希望を持って生きるのは、この世はあまりに過酷かと……」
「この魚、お前と俺のふたりがいたから釣れたんだよ。ふたりで力を合わせて釣れたんだ。この国に残されたものはすべてがあと僅かだ。戦争が終わっても個人の力じゃ何も出来やしない。これからは志を高く持って、仲間を作り共に歩むことを考えるんだ。失敗しても肩を叩いて励まし、再び歩むために手を差し伸べてくれるのが本当の仲間だ。お前には優しさと知恵がある。厳つい軍医には言えなくても、お前にならば自分の辛さを言えるという患者は必ずいる」
共に命の刻限が迫っているにも関わらず、日向は常に薫に生きることに目をむけさせようとしている。残り少ない時間に未来を思い起こさせ、心身共に傷付いた薫を僅かにでも癒そうとしてくれている日向を思うと、常に持ち続けていた悲壮感を手放すことが日向への恩返しのように思えた。
「自分は明日にでも出撃命令が出ても笑って行けます。だって、こんなに楽しくて幸せな時を頂けたんですから。もしも、自分に未来があるのだとしたら、今の日向大佐の言葉を自分は忘れません。自分ばかりが不幸だと信じて疑わなかったけれど、日向大佐も空襲でご家族や身内の方々を亡くされていて。でも、それでも自分なんかのことを心から案じてくれて。自分は今日、ここで誓います。過去に足を取られず前を向いて歩くことを」
その言葉に振り返った日向の視線の先にいたのは、今まで見たことのない弾けるような笑顔の薫だった。

 昼食は宿の女将が持たせてくれた弁当とふたりで釣りあげた川魚5匹。日向が慣れた手つきで魚をさばき火を起こしさっと塩を振って焼いてくれた。
「美味しいですっ!あぁ、川魚がこんなに美味しいだなんて。それにこのお弁当!白米のおにぎりに梅干しと卵焼き。卵焼きが甘いんですよ、ほら……」
「そうか、そんなに美味いか。私の分も遠慮なく食べろ」
日向はおにぎり一つを手に取ると、残りのおにぎりとおかずのすべてを薫に差し出した。遠慮する薫に
「お前の笑顔があれば俺は他に何もいらない」
と、笑った。それは敏子がよく薫に対して、自らの僅かな食べ物を分け与える時に言ったのと同じ言葉だった。
『やはり日向大佐は、自分に対して弟のような感情以上のものは持ってはいなかった』
日向とのこの一時が楽しければ楽しいほど、吐きだせない想いは苦しいほどに胸の中に渦巻く。
「自分は……」
「ん」
「自分は今度、生まれ変わることがあったなら、やはり敏子姉さんや日向大佐とまた出会いたいと思ってます。いつか戦争のない時に生まれて互いに夢を追いかけながら、笑って生きるんです。そして毎日、こんな美味しい甘い卵焼きを食べられるくらい出世もしたいです。大佐は船乗りになって世界をまわって、自分は医師になって貧しい農村で人のために尽くせたらと思います。お金を貯めて必ず大佐の船にも乗ります。大佐と世界中を歩いてみたいです」
「新婚旅行みたいだな」
日向が笑うと薫は我に返り真っ赤になって俯いた。


「そろそろ宿に戻ろうか」
日向の言葉に薫は冷水を浴びる思いがした。あまりに幸せで楽しくて今、目の前にあるこの空間だけがすべてだと錯覚していた。そう、自分たちは帝国海軍軍人。あと幾日かで日向と共に艦に乗って出撃するのだ。もう帰港することのない艦出へと。片付けながらふと日向を見ると火を起こした時に身体のあちこちが炭で汚れているのを見つけた。
「大佐、お身体が炭で汚れています。自分がお拭きしますから、服を脱いでください」
「済まない、頼む」
言われるままに日向は服を脱ぐ。少し汗ばんだ浅黒く引き締まった上半身が少し傾いた日に晒される。自分のために身をも滅ぼしてまで尽くしてくれた姉敏子以外に、他人をここまで美しいと感じたことはなかった。今更ながら日向を前に手が震える。手拭いを川で浸して絞り、背を向けて座る日向に近づく。上官たちに殴られても、こんなに苦しいと思ったことはなかった。
神聖なその身体にそっと触れる。誰かを好きになることは、きっと幸せに満ち溢れるものだと今日まで信じて疑うことはなかった。しかし、それがまったく違うことに薫は今、はっきりと気付いた。人を好きになることは、何て心が苦しく切なくなるのだろうかと。その存在があまりに神々しすぎて自分が触れれば穢してしまうのでは。これ以上、躊躇っていては日向に何かを悟られてしまう。薫は意を決して、日向の背を手拭いで拭き清める。
「ありがとう。気持ちがいいよ」
青空を見上げながら日向が目を細める。
「あ、あのっ。お願いがあります」
背後から引きつった薫の声が聴こえる。
「どうした」
「あの、1分でいいんです。私に時間をください。何があっても忘れてしまうような、記憶にも残らない捨て去る時間でいいですから」
そう言うと薫は日向の背にしがみ付いた。
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