海蛍 27

文字数 2,801文字

 次に薫が目覚めたのは、消毒液の匂いと悪寒、撃たれた部位の痛みの感覚の中でだった。そこには懐かしい艦中騒めきと艦を動かす巨大なエンジン音が低く響いている。身体は乾いていてベッドに寝かされている。自分は悪夢を見ていたのだろうか?そうだ、日向が自分をおいて自決するなどあるはずがない。そっと目を開く。倦怠感の中、瞳を開くだけでも呼吸が乱れる。ぼんやりとした意識の中、開かれた目に飛び込んで来たのは確かに艦内の一室だった。悪い夢を見たものだと内心、苦笑しながらあまりの辛さにもうひと眠りをしようとした時、廊下での会話が聴こえた。その耳に入った言葉に薫は戦慄する。耳にした言葉は日本語ではなく、敵国語として忌み嫌っていたものだったのだ。

「Do you believe in existence of God?(君は神の存在を信じるかい?)」

 突然、頭上からそう問いかけられ、薫は驚き声の方を仰ぎ見た。肩に受けた傷の痛みが全身を走り思わず顔を顰めた。その声は同じ問いをもう一度薫にしてきた。苦痛に顔を歪めながらその声の主を薫の目は捉えた。自分よりも10歳くらい年上の軍服を着た男だった。金色の短髪に、今まで自分が彷徨っていた海に近い、美しい宝石のような瞳で寝ている自分を見下ろしている。寄りによって日向が身を犠牲にしてまで救ってくれた命は結果、敵兵に捕らえられたのか。全身の力が抜けていく。衛生兵として薫は薬剤や医学用語を使うこともあり、他の兵士よりは英語が堪能だったので、男の発する言葉の意味を苦もなく理解できた。
「No……」
薫の返事に男は困った表情で苦笑する。
「私のこの姿を見たらわかるだろう!あなた方の国には神はいるが、私の国に神など存在してはいないと」
薫はたどたどしいながらも英語でそう怒鳴った。
「昨日のわが合衆国爆撃部隊が日本の戦艦を撃沈させたと聞いている。君はそのクルーだったんだろう?だったら神を疑ってはいけない。こんなに酷い傷を受け長時間海に漂いながらも生き残り、この艦に見つけ出されたことを奇跡と思わないなんて」
男はそう言うと、薫の手を掴む。驚き男の手を払いのけると、男は苦笑しながら今度は少し強引に薫の手を掴んだ。そして脈を取る。
「敵国の兵士を助けるなんて米国は狂っているのか、余程冗談が好きなのか」
薫の呟きに近い言葉に男は一瞬、困った表情をする。そして、天を仰ぐように一呼吸すると薫を見つめ言った。
「もう敵味方は無くなったんだよ」
その言葉は理解できたが、どうしても意味が理解できない。
「今日は8月16日。昨日、日本は無条件降伏をした。日本は戦争に負けたんだよ」
その言葉が薫の全身を突き刺すように圧し掛かる。
「負けた……?昨日」
「あぁ、昨日の15日、日本のエンペラーが自国民に向けてメッセージを出したそうだ」
敏子も日向も日本はもうすぐ敗戦を迎えると言っていた。自分もその考えに異存はなかった。だが悔しい。どうせ負けるのならば何故、日向が生きているうちにそれがなされなかったのかと。
「私のほかに捕虜となった生存者はいないのですか?」
薫の問いに男は痛々しい表情で首を横に振った。
「戦争は終わっても、米国だってどこだって薬剤の不足変わりはないでしょう。私を殺してくれませんか。手間は掛けなくていいんです。このまま海に突き落としてさえくれれば。海には多くの仲間が待ってます」
「その身なり……君は衛生兵なんだろう?国際法上、衛生兵は保護すべき規定があるんだよ」
「でも、戦争が終わった今、衛生兵であろうとなかろうとそんなことは関係ないっ。私は、私は兵士だ!」
目に涙を溜めた薫のベッド脇に男は座る。
「君の乗っていた艦はかなりの規模のものだと聞いている。たったひとり生き残ったことに君は何も感じないのか?私の国の兵士も君の国の兵士も、本心で喜び勇み死んだ者がただのひとりでもいると思っているのか?」
その言葉に薫は黙り込む。
「私の兄は硫黄島で戦死したよ。楽でいい死に方なんてないのはわかってはいるが、双方の国の兵士の死に様は、それは悲惨なものだったと私は聞いている。24時間、私はここに常駐していられない。もしも君がどうしても死にたいと思うのならば、きっと私の目を盗み死ぬことは可能だろう。でも、あの大海でこの艦が君を見つけた奇跡を、この艦と出会うまで命を繋げた奇跡を忘れないで欲しい。これから復興という大きな規模のミッションが待ってるんだ。特に君のような専門知識のある者は重宝されるはずだ。どうか、自分の命という次元ではなく、世界が立ち直るための使命を神から授けられたことを自覚して欲しい」
男はそういうと立ち上がり、薫に敬礼をすると部屋を出た。敗戦よりも、多くの仲間や日向を失った事実が辛かった。

 その後、男は危ない手つきで二人分の食事を部屋へ運んできた。それを一旦、机の上に置くと男は薫へ目で合図をして背中に手を添えベッドの上に座らせた。
「一気に食べなくてもいい。私が無理に食べさせても、君はきっとそれを飲み込むことができないだろうから。ただ、辛いだろうが死んでいった者たちのことは忘れてはいけない。その人たちが命を懸けてまで護ろうとしたものを、今度は君が生きて護っていかねばならない。それが理解できた時、この食事は君の命を繋ぐ手助けをしてくれるはずだ」
男はそう言うとスプーンを薫に握らせ、自分も机に向うとそれを食し始めた。日向と共にした食事を思いだす。笑顔を、言葉を、温もりを。最後の時間を自分のために費やしてくれた思い、まさに命を懸けて自分を護り生かしてくれたことを膝を伝って感じるトレーの温もりを通して知る。日向が言った『死ぬより辛いこと』。それに自分は耐えられるのであろうか。日向が自らの手を切り刻んだことを思えば、自分のこの思いは辛いなどとは言えない。震える手でスプーンを握りしめスープをすくう。ガタガタと震え口元に来た時にはスプーンに半分もスープは残っていなかった。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。日向艦長が与えてくれたこの命、長らえさせます。あなたのために、自分のために。そして、まだ見ぬこれから出会うであろう人たちのために」
俯くと同時にスープの中に涙がぽたぽたと落ちていく。
「戦争に勝っても負けても、その先に幸せなんてありゃしない。なぜなのか君にはわかるだろう?一人でも犠牲者が出た瞬間、そして一人でも涙した瞬間から不幸は始まっているからだ。犠牲者や他の誰かの涙の上に幸せは訪れはしない」
まるで未だ日向が生きていて、自分を励ましてくれているのではと思うくらいに男の言葉は薫の心に深く静かに染み入って来る。嗚咽を漏らしながら、薫は何度もスープをすくい飲み始めた。

生きるため、薫の新たな戦いが始まった瞬間だった。
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