海蛍 28

文字数 3,271文字

 艦はそれから幾日かを経て東南アジア某国へと着いた。ここは多くの戦死者を出した激戦地でもあり、生存する日本人は僅かしかいないと薫は耳にした。
実は薫の乗った艦はこの地へ『海蛍』を運ぶことも任務の一つとなっていて、停留する艦の窓から見る窶れ屍のような姿で生き残り移動する日本兵を見て胸が詰まる思いがした。傷もかなり癒えて身の回りのことをするのにもどうにかなっていた薫は当然、自分はこの地で艦から降ろされ眼下で幽鬼のように彷徨い歩く日本兵と合流するのだと考え覚悟を決めていたが、下艦を求められることがないまま艦は物資を降ろし、新たな荷を積み込むと困惑する薫を載せたままアメリカへと旅立った。何度も下艦を願いでた薫を軍医助手要員として艦長から許可をもらい留まらせたのは、薫に生きる望みを諭した軍医のアラン大佐だった。アランが医務室で日本兵を助手として扱いながらも厚遇していると知り、気の荒い一部乗組員が何度か薫の元へ怒鳴りこんで来たこともあったが、アランは衛生兵に置ける国際法の位置付けを説明し薫に手出しをする者は帰国後、軍法会議にかけると脅かすと皆が引き下がった。アランは叔父が海軍中将でその威を借り名を出せば、大抵のことはどうにかなるのだと笑っていた。もうすぐ40歳になるというアランが時折笑う表情は、どこか日向を思いださせる雰囲気があった。薫はアランから艦内で行動に制限があるものの、アメリカなど欧米での進んだ医学を学ぶ機会を与えられた。自分が置かれていた境遇とは違い、艦内であっても機材や薬が豊富なことに驚くばかりだった。決して日向とのことを忘れた訳ではない。日向と共に多くの命を奪ったこの国に関わる全てのものに憎しみが残っていたのは事実だが、生き残った自分が何をすれば日向は喜んでくれるのかを薫は考えながらも明確な答えを見出さないままにアランから医学を始め様々なことを学び日々を過ごしていた。身体の傷は次第に癒えたが、心の傷は未だ薄らぐことはない。


「カオル、甲板に出て見ないか?星が空からこぼれ落ちそうだ」
器具の消毒を終えたばかりの薫にアランはそう声をかけた。
「はい」
薫は濡れた手を拭きながら、アランに付いて甲板へ出た。
「あ……」
アランの言う通り、空には無数の星が競い合うかのように煌めいていた。そして、あの日と同じ様に東の空から蒼白い月が海面に揺れる光の道を描きながら静かに上り始めていた。日向の背から見た月を通じて思いを明かし合ったことを思いだすと、堪えていたはずの涙が視界の月を小刻みに揺らす。そして、その揺らぎはすっと薫の頬を流れ落ちた。
「カオルには家族はいるのか?」
薫の涙に気付かぬふりをして、アランはその横に座ると語りかけるように尋ねる。
「親とは色々とあって縁が切れてるんで、生きているのか死んでいるのかもわかりません。優しかった姉は死にました」
「恋人はいなかったのか?」
この問いに薫は唇を噛みしめ、言葉を発することができなかった。アランはその問いを続けることはなかった。
「この艦は五日後に米国に帰還する。私は今回の任務を最後に除隊して故郷に戻る。カオルが医者になる気持ちがあるのなら、私と一緒に故郷のオレゴンに来る気はないか?」
思いもよらぬアランの言葉。
「フフッ…何を……」
薫はアランが自分をからかっているのだと思い嗤った。
「アメリカ本国へ行けば私は正式に捕虜として身を拘束され、明日の命もわからない状況になるというのに」
「カオルの仕事ぶりを見ていた。カオルは実に飲み込みが良く、あらゆる仕事を素早く覚え自分のものにしていった。分からないことを先延ばしすることもなく、敵兵である私たちを『ひとりの患者』として扱っていた。私の目の届かない所では日本兵と言うことで随分と嫌な思いもしたことを知っているが、カオルはそれでも分け隔てなく患者に手を差し伸べ続けた。見ていてすぐにわかったんだ。君は看護兵ではなく医師に向いているのだと」
アランは月を見上げたまま言った。
「捕虜の私が帰国どころか、まともに生きていられるなんて考えてもいません。むしろ今のこの生活が恵まれ過ぎておかしいんです。死は怖くはありません。少し遅れて仲間の元へ行く、ただそれだけですから。覚悟は出来ています」
あの時、日向の背で仰ぎ見た蒼白い月はあんなに美しく思えたのに、甲板上でアランと見る月は何故か物悲しささえ感じた。あれだけ前向きで明るかったアランが押し黙る。艦が波をかき分ける音だけが響く甲板で闇に紛れたアランは言った。
「私は不治の病を背負ってしまったんだ。除隊も自分の意思ではなく病故の命令だったんだ」
アランの突然の告白に薫は驚き寄り添っていたアランの顔を見た。アランにいつもの笑みは無くただ、月を目で追い続けている。
「田舎町で医者は牛も馬も人も対等に診なければならい。死なせてしまえば残された者の生活が成り立たなくなるからな。正直、忙しくて気の休まる時は無かった。でも、そんな境遇のおかげで自分は軍医として任務をこなせたと思う」
戦争に勝利し浮かれ喜ぶ目の前の艦員たちを薫は違う世界のできごとのように見ていたが、ここにも命の刻限に迫られながらも笑顔で全力で己の責務を果たそうとする人間がいたことに驚く。
「カオルは死は怖くはないというが、私は恐ろしいと思っている。いや、恐ろしいのは自分が生きた証をこの世に残せないことなんだよ」
薫の視線に気づいたアランは力なく笑った。
「いや、子や財を残すというのではなくて、自分が学び得たこの知識を抱えたままに死んでいくことが残念でな。医学を学びたい者はどこ国にも多くいる。でも、自分の持つ知識や経験を伝え残したい者となると話は別だ。人は思う程に利口な生き物ではない、寧ろ愚かだとさえ私は思う。今やっと終わった戦いだが、それを昔話だと嘲笑する者が現れ、そしてそう遠くはない未来に再び戦いは始まる。私は断言するよ」
アランの言葉が大袈裟ではないことを薫は実感する。現に生前の日向も敏子も同じことを言っていた。
「お気持ちに感謝は致します。けれども、どんなに夢や希望を持っていても、それがすべて叶うことはないのだと私は身に染みて知っています。正直、何も無くなってしまった日本へなんて帰りたくはない。いっそこの地で処刑された方が私はどんなに幸せか……」
「よし、だったら私がカオルの命を預かることにしよう、敵国捕虜としてな。それなら文句はないだろう?」
言葉とは裏腹にアランは月下で弾けるような笑顔を薫に見せた。

 それから五日後、艦はアメリカの軍港に到着した。薫は一時的に捕虜として独房へ容れられたが、アランと海軍中将である叔父の働きかけで一週間もするとそこを出ることを許された。アランは合衆国政府からの特別な薫の身分証明書を手渡した。
「待たせて済まなかったな、カオル。これはここで生きるための君の身分を証明する大切なものだ。何があっても絶対に身体から離すな、いいな」
手の中の紙には自分の写真が貼られ名前、生年月日、日本人であることが記載された他に『米国海軍による特殊任務遂行中に付き、この者の妨げになることを排除し米国内で暮らせるよう、関わった者へ最大限の協力を望む』との一文があり、薫は驚きアランを見上げた。
「叔父夫婦は子供がなくて俺をわが子のようにかわいがってくれてな。大抵の我が儘はきいてくれたよ。愛犬のジョンの全身を赤いペンキで塗った時は、さすがに叱られたがな」
と、笑った。反感を買わぬようにと古めの目立たない服を用意され、それに着替えると古びた荷台付きのトラックを見せられた。
「さぁ、これでオレゴンまで突っ走るぞ。何日も車中泊にはなるが、太平洋で浮いていたことを思えば屋根もあるし水や食料もある。問題はないよな?」
動揺する間もなく、薫は車に載せられるとアランは思い切りアクセルを踏み込んだ。想像もしていなかった薫のアメリカでの生活が幕を開けた。
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