海蛍 11

文字数 1,827文字

 重なった視線があまりに辛すぎて、思わず薫は目を逸らせた。逸らせた先には整えられた机があり、その上に置かれていたのはあの万年筆。見知らぬ誰かから敏子を通じて託され、自分を犯す道具ともなった万年筆が綺麗に磨かれ置かれていた。
見知らぬ誰かと思っていた時がまだ幸せだった。本来の持ち主が日向だったことが薫を更に絶望へと追いやる。視界に入るすべてが揺らいで見える。その揺らぎの中の『あるもの』に薫の焦点は定まる。自分に残された最後の気力と力を振り絞ると、薫は勢いをつけ毛布を跳ね除けると同時に自分が寝ていたベッドの横に立っていた日向に飛び掛かった。薫の不意打ちに日向は薫に押し倒されるように背中から床に倒れた。震えながら日向の腰を弄り、薫が手にしたのは日向が身に着けていた小型拳銃。両手の中に納まるほどの小さな銃を薫はガタガタと震えながらも必死にトリガーに触れようとする。しかし、震える手は薫の意思通りに動かない。自分の腰に馬乗りになって必死に銃を構えようとする、殴られ人相も変わってしまった薫。日向は仰向けになったまま薫の手に自分の手を添える。温かくて大きめなその手に覆われ薫は息を飲む。日向は静かに薫の指をトリガーに触れさせると、銃口を自分の心臓部分にあてた。
「そのまま一気にトリガーを引け」
日向の言葉に驚き我に返った薫は涙をこぼしながら叫んだ。
「違う、違うっ!あなたを殺そうとしたんじゃない。自分は……姉に、会いに……行こうと……」
日向は動じることなく言った。
「お前がどうしても姉上に会いに行くと言うのなら、私も同行しよう。ただし、私を先に撃て。お前の力になれなかったことを、私が先に行って姉上に詫びなければならないからだ。私を確実に仕留めてからお前は来るんだ。だが、死んだ私を見て気が変わったのなら、そのままお前は生きろ。そこの引き出しの中に私の遺書がある。いつ死んでもいいようにと用意してあった。それを見せて私が自害したと言えば、誰もがお前を疑うことはないだろう。いいな。さぁ、撃て、薫」

 日向に名を呼ばれてはっとする薫。その慈愛に満ちた眼差は姉の敏子と錯覚しそうにさえなる。
「あ……あなたを殺してしまったら……俺、本当にひとりぼっちになって、しまうじゃないで、すか」
身体の芯から震える薫の手にある拳銃は、小刻みにカタカタと小刻みに音を立てる。
「お前の姉上と縁あって話す機会に恵まれた。姉上はお前の幸せだけを考え望んでいた。そして、その願いを私が引き継いだ。お前の行く末を見ずに、自らの命を断ち切らなければならかった姉上の気持ちを察するんだ。いいか、お前がすべきことは、何があってもその命を未来に繋ぐことなんだ」
「こんな非道なことをされてもですかっ!?」
「そうだ。お前がどんなに辛くとも、俺はお前の陰になり支えにもなる。医者になりたいんだろう?医者を志す者が、自らの命を粗末にしてどうする?お前がここで死ねば、この先、医者になったであろうお前に助けられるはずの多くの命は?」
「でも、でもっ!俺にはもうわからないんです。自分が何のために生きなければならないのかが!」
「……俺のために生きてはくれないか?」
思いがけない日向の言葉に薫の手はだらりと落ち、銃を手放した。
「もうすぐこの戦争は終わる。敗戦という形でな。生きられなかった姉上の気持ちをも育みながら、新しい国をつくるために私と一緒に歩んではくれないか」
「こんなにされて、ボロボロになってしまった衛生兵の俺と日向大佐が……?」
「戦争に負ければ、階級なんて関係ないさ。お前と生きるためなら俺は田を耕し漁をして、土木作業をしてでもお前を医学の道に進ませてやるよ。だから、約束してくれ。何があっても生きる、生き残ると」

 生活苦から親に疎まれながら育ち、唯一の味方だった姉とも死に別れ、自分にはもう何も残されてはいないと思っていた。しかし、日向はそんな自分を親兄弟以上の思いで慈しんでくれている。全身はまだ、暴行された傷が痛む。けれども、その痛み以上に日向の言葉がたまらなく嬉しい。生まれて初めて姉以外の人間から、信頼以上の思いを持ってしまった日向からの言葉が絶望のふちにいた薫を『生きたい』と思わせた。
「うぁぁぁっ!」
薫は日向の胸にしがみ付き泣いた。硬くて冷たい床に背をつけたまま日向は薫をただ、抱きしめ続けた。互いの温もりで生きていることをふたりは実感した。
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