海蛍 22

文字数 3,527文字

 出撃の決まった者たちは急ぎ田舎へ帰郷し親や妻子との僅かな時間を過ごす者、誰とも会う者もなく郭へ行き浴びるように酒を飲み狂ったように遊女を抱く者と様々だった。明日午後には皆が揃い、翌朝には艦で出撃となる。
兵舎の静寂の中、薫はひとり孤独を噛みしめていた。日向は出撃に向けての連日の作戦会議でもう後姿すら見ることは叶わなかった。こんな時代なのだし、いつか戦死することはわかってはいたし覚悟も出来ていた。しかし、日向が自分の延命を図ろうとして、ここまで緻密に物事を進めていたなど考えてもみなかった。今、薫は死など恐れてはいない。恐ろしいのはここでひとりで日向を見送ることだけだった。百数十人が乗艦して出撃しても、その日の午後には新たな出撃候補者でこの兵舎はいっぱいになり喧騒が生まれる。将棋の駒なら使いまわしも出来るだろう。しかし、自分たちのような者はこの国にとっては将棋の駒にも覚束ない。いくら命を散らせても、新しい命はすぐに補給される。日向と共に死にたいことがなぜ、許されないのか……薄暗い中、薫はベッドから飛び起きた。
「そうだ、俺はひとりで生きていたい願望なんてないんだ。だったら!」
急ぎ服装を整えると足早に部屋を出た。


 出撃当日。遠雷響く鉛色の空の下、名簿に記された者たちが最低限の荷物を手に乗艦する。
「先に行って待ってるからなっ!」
死出の旅に向う艦への行進に声をかける者、かけられる者たちは笑顔でもう動揺などみせはしない。ただ、タラップに足を載せた瞬間、覚悟を決めていたはずの屈強な男であっても一瞬、表情が強張る。艦はひとりひとりを喰らうかのように、若者たちを確実に飲み込んでいく。

「総員、格納庫に集合しました!」
艦長室で落ちてきた大粒の雨を見つめていた日向の元へ報告が入る。
「あぁ、わかった。すぐに行く」

薫の笑顔が胸を過る。
『死んでもいい』
背中でそう言った薫の言葉を思いだす。
「もしも本当に魂の存在があるのなら、この肉体が果てたら真っ先にお前の元へ行くから」
初めて思いを声に出した日向。軍服を整え帽子を被る。この部屋を出た瞬間、死を迎えるまでもう薫のことは考えまい。多くの命を預かる艦長の責務は重い。
磨かれた革靴、光を放つ手入れされたサーベル。そこにいるのは薫を慈しんだ『日向総一郎』ではなく、駆逐艦艦長『日向総一郎』。瞳を閉じ最後にもう一度だけ薫の笑顔を思いだす。
「君が健やかに生きられるよう、この命、惜しみなく捧げよう」
重いドアノブに手をかける。冷えたドアノブがあの日の薫の手の温もりを奪っていく。毅然と前を向き日向は歩きだした。

 百有余人の総員が整列するのを眼下にして、日向は立つ。皆が姿勢を正す。
「私が艦長の日向総一郎だ。乗員諸君の命を預かることとなった。いいか、私は無駄死は決して許しはしない。最後の最後まで生きることに貪欲になれ。戦いの終着点は死ではない。各自、自らの任務を果たしながら共に助け合うこと。私の希望は以上だ」
挨拶を終えタラップを降り始めた時だった。乗員列の後方に日向の視線が釘付けとなり動きが止まった。
「日向艦長、何か?」
傍にいた士官が尋ねる。
「いや、なんでもない。私の元へ総員名簿を持ってきてくれ。いいか、最新のものをだ」
早足で艦長室に戻った日向は、後ろ手で戸を閉めると同時に頭を抱え壁にもたれかかってしまった。
「なぜ、なぜお前がこの艦にいるんだ。うそだろう?見まちがいだよな、なっ、橋本!」
タラップを降りながら日向の視界に入ったのは、遥か後方に姿勢を正し敬礼していた薫の姿だった。いや、そんなはずはない。この艦への乗艦名簿は自分が中心になって作成したのだ。確かに薫は候補に入ってはいたが、怪我がまだ治らず任務に障りがあるという理由から約1か月の出撃は見送らせたのだ。それがなぜ!?
「乗員名簿をお持ちいたしました」
「入れ」
「失礼致します」
士官が退出後、日向はそれを机に放ると同時に震える手で数センチはある厚い名簿を捲り始めた。自分が見た薫の姿が幻影であることを祈りながら。しかし、最後のページに追加乗艦として「衛生兵・橋本薫」の名を見つけると、膝から崩れ落ちるように倒れかけた。出撃まであと30分。何とか口実をつけて薫を艦から降ろす方法はないかと思いを巡らせる。バリバリッ!雷鳴がとどろき響く。気付けば雨は一層激しく艦長室の窓を打ち付けていた。
「そうだよな。お前は確かに俺に『死んでもいい』と言ったんだよな」
やがて銅鑼が鳴り響く中、多くの兵士に見送られながら日向の駆逐艦は、戻ることのない旅へと船出した。

「お前、名簿に名前が無かったのに、どうしてこの艦に乗ってるんだ?」
その夜、食事をとりながら横にいた同期の佐伯が不思議そうな表情で薫に訊ねた。
「同期でありながら、お前は出撃で俺は留守番っておかしいだろう?で、確認してもらったら俺の名前が名簿から漏れていたってわかって」
薫はそういうと笑った。
「ふーん、そんなこともあるんだ」
佐伯は今一つ納得してはいなかったが、この艦に乗った以上、運命共同体となった薫に対して頑張ろうなと手を差し出し固い握手を交わした。と、その時だった。
「橋本衛生兵、日向艦長がお呼びだ。すぐに艦長室に行け」
艦長付の士官が声を掛けた。
『もう、ばれてしまったなんてさすが、日向艦長は欺けないな』
内心苦笑しながらも、薫は起立し返事をすると士官に伴われて艦長室へと向かった。

「橋本衛生兵を連れてまいりました」
「ご苦労だった。橋本は中へ入れ。お前は戻っていい」
「橋本衛生兵、入りますっ!」
ドアの向こうに待っていたのは、軍人としての厳しく威厳のある日向だった。
「いくつか尋問がある。偽りなく答えろ。お前はなぜこの艦に乗っているんだ」
「同期の佐伯や岸田、竹内や島谷が乗艦名簿に名があったのに、なぜか自分の名がありませんでした。これはきっと上層部で何か手違いがあったのだろうと、自ら石田少将に申し出をし乗艦名簿に加えていただきました」
「お前、石田少将に直接話をしたのか!?」
海軍少将と言えばかなりの位であり、薫が目通りを求めても会ってもらえるはずもない程地位の高い者だった。今回の日向に艦長を任せると通達してきたのが石田であり、その際に日向は石田少将に薫が怪我をしていて、それが治るまで出撃を見送ると約束を交わしていた。それなのに……
「大変でしたが、どうにかして会うことを許されました。そして、自分はどうしても日向艦長の指揮の元でお国のお役に立ちたいと願いでて認められました」
薫は表情を崩すことなく、直立不動のままそう答えた。
「艦長は私だ。私はお前の乗艦を認めてはいないし、認める気もない」
日向は無表情のまま言った。
「勝手なことをして申し訳ありませんでした。日向艦長の命令により、橋本衛生兵はただいまから退艦いたします」
姿勢よく敬礼をすると、薫はくるりと向きをかえ日向に背を向けた。
「ま、待て。退艦すると言っても艦は相当沖に出ているんだ。天候も良くはない。どうすると……」
「艦長命令に逆らう訳にはまいりません。自分はボートを使って退艦します。乗員ではない以上、以降は自らの判断で行動をします。手でボートを漕ぎこの艦の後を追います」
薫の背に嘘はない。このまま艦長室を出れば、薫は間違いなくボートに移り豪雨の中、この艦を追って来るだろう。薫は何の躊躇いもなくドアノブに手を掛ける。
「お前は馬鹿だ。あのまま残っていれば戦争は終わって生き延びることが出来たかも知れないというのに……」
「姉もあなたもいない世界に何の未練もありません。今はただ、息絶えるまであなたの傍で仕えたいんです。だって、だって身体は生きていてもあなたを失ってしまえば魂は死んでしまうんです。笑われるような無様な死に方はしません。あなたの部下として誇れるように散ります。だから、お願いです。私をここに!」
薫の背が小刻みに震える。
泣かせたくはない。
ただ、幸せになることを祈っていたはずなのに、その自分が今、薫を泣かせている。
「橋本……」
「即刻、退艦します」
「ここにいてくれ。ここで、この艦で私と息絶えるまで運命を共にしてくれ」
日向の言葉に薫はハッとして震えが止まる。
「橋本薫衛生兵、艦長として命令する。この艦で衛生兵としての任務を命ずる。私と共に旅立つことを……」
急ぎ傍に行き薫の身体をこちらに向けさせた。まだ痣の残る涙で濡れた薫の顔が笑顔になった。
「お供いたします、どこまでも」
日向は薫を抱きしめた。
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