海蛍 13

文字数 2,020文字

 蒸気機関車は時折、悲鳴のような汽笛を鳴らしながら山深く緑を分け入り進む。貧しさゆえ、それに乗ったことなどないと知っていた日向は薫を窓側へ座らせ、進むごとに視界に入る美しい風景を指さし伝える。しかし、薫の心を捉えていたのは決して風景ではなく、繊細そうな日向の美しい指先だった。時折、検札職員がやって来たが、海軍大佐である日向の徽章を目にすると、直立不動で敬礼をした。改めて薫は自分と日向の身分の違いを感じた。

 山の中の人気の少ない駅に着いて、薫は周囲を見回す。山に囲まれ、青空に白い雲が悠々と流れている。この空間だけ戦争中と思えないような鳥の囀りが聴こえてくる、心が癒されるそんな場所だった。
「少し歩くが大丈夫か?」
薫が周囲に見惚れているうちに、日向が僅か先に歩きだしたもののすぐに立ち止まり声をかける。
「申し訳ありません。大丈夫です!」
薫は慌てて日向の元へ駆け寄り歩調を合わせた。
「30分程ほど歩くと、宿泊を予定をしている温泉宿がある。時節柄、贅沢ができる訳ではないが、湯に浸かって心と身体を癒す手助けにはなるだろう」
「で、日向大佐の任務は……?」
隣を歩く日向を見上げ問う薫に
「大切な任務なんだ。しっかりと遂行しなければな」
と日向は答えた。
「私は何をすればよいのでしょうか?」
その問いに日向の足は止まる。
「……任務は極秘事項で私にしか伝達はされていない。お前は本来の目的を誰からも悟られることなく、普通に私の部下として振る舞ってくれればそれでいい」
「わかりました」
薫は返事と同時に小さく頷いた。


「日向様、ようこそお越しで。お待ちしておりましたよ」
50代ぐらいのモンペ姿の女将が、日向の姿を見つけると駆け寄って来る。
「この度は、」
女将の挨拶を遮るように
「早速ですが部屋へ通してください」
と、日向は笑顔で言った。
「ご用意しておりますよ。最上のお部屋を」
日向の何かを察したように女将もすぐに笑顔になり、日向の話に合わせながら部屋へ促す。
僅かに、本当に些細なほどの違和感を、薫はこの二人の会話に感じた。


 山の緑が幾重にも宿を覆うように茂る。いつもは聞こえる訓練での上官の怒号も騒ぎもここではない。落ち着いた畳の部屋へ通され、薫は子供のように窓に駆け寄り深呼吸しながら深い緑と静けさを堪能する。茶道具を携えた女将が、童心に帰ってはしゃぐ薫の姿に目を細める。
「この度はこのような山深い田舎宿へお越しくださり、ありがとうございます」
女将は視線を正すと日向へ手を着いて挨拶をした。
「今回はこの若い士官が望むようなもてなしをお願いします」
薫は慌て日向の隣に正座すると、
「私はただ、日向大佐に同行しただけで……」
と、日向の顔色を伺いながらも口ごもる。
「早速ですが私はこれから一時間程、外に出て来ます。その間、こちらの橋本衛生兵をお願いします」
日向は挨拶もそこそこに立ち上がった。
「私も同行致します!」
立ち上がろうとする薫を日向は手で制する。
「私は任務でこれから人と会う。お前はここで待機となる。それでは女将、お願いします」
日向は女将に一礼すると、部屋を出た。

 ひとり残った薫に女将は茶を入れ、茶菓子を差し出す。茶菓子など生まれて初めて人様から勧められた。甘いものを前に喉がごくりと音を立てて部屋に響く。恥ずかしさで俯く薫に
「若い下士官さんは日々、贅沢もなさらず身体を鍛えぬいていらっしゃるんです。たまにはこんな贅沢もいいでしょう」
深く頭を下げ、薫はその菓子を一口で頬張った。廓にいた姉の敏子が、客から貰ったと菓子を取り置き薫に食べさせてくれたことがあったが、その菓子とは明らかに違う上品さがある。日向の存在と身分があったからこそ、自分のような者でも口に出来たものに違いなかった。
「さぁ、こちらもどうぞ」
と、女将が更に差し出してきたのは日向の分であった。
「い、いえ。自分はもう十分にいただきましたので」
恥ずかしさで口ごもる薫に
「日向様からこちらも橋本様へお出しするようにと、言われておりますので」
と、女将は笑顔で答えた。
「あのっ、日向大佐はここへ来たことがあるのでしょうか?今回の日向大佐の任務って一体……」
「私どものような者には、軍人さんのご予定など知る術はございません。日向様が任務と仰ったのならばそれはきっと大きな任務なのでございましょう」
女将の冷静さに気圧される。
「日向様は以前に一度だけ、他の将校の方とお見えになったことがございます。お酒をお出ししても無理な飲み方をなさらない、私たちにも気配りをしてくださる軍人さん、いえ、人間として素晴らしい方だと思っております。その日向様がお連れになった橋本様にもまた、私たちは精一杯、おもてなしをさせていただきます」
そつなく答える女将に薫はそれ以上、何も聴くことも出来ぬまま一人部屋に残った。

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