海蛍 4

文字数 1,761文字

 二等兵としての僅かな給金を使うことなく、薫はその金を貯めると姉敏子の元へと通った。郭では肉親であっても金さえ出せば、姉とゆっくりと話すことが出来る。当初は自分が身を売る場所で弟である薫と会うのが嫌だと言った敏子も、いつ薫が戦地に赴き戦死するかもわからないと知ると、薫と会い夜通し話をしてくれるようになった。煎餅布団の敷かれたかび臭い部屋には、敏子のむせるような粉白粉と男特有の生臭さの入り混じった臭いが混在していて、何度ここへ来ても薫がこれに慣れることはなかった。しかし、敏子はここで身を売り自分や家族をここまで生かしてくれた。薫は何事もないように平常心を装いながら敏子と僅かな時を過ごす。辛い訓練や言いがかりでの制裁も、敏子と過ごすこのひとときだけは忘れられた。
 薫が衛生兵になった頃だった。風邪が治らないと苦しそうに咳き込みながら、敏子は薫に小さな箱を手渡した。中にはドイツ製の高価な万年筆が入っていた。
「敏子姉ちゃん、これ…!?」
「薫、この戦争はそう長くは続かない」
敏子の言葉に薫の顔色は変わり、誰かに聞かれてはと思わず敏子の口を手のひらで塞いだ。敏子は青白い顔で薫の手を振り払うと、薫の耳元で更に続けて言った。
「私の相手の殆どは、海軍のお偉いさんや明日戦地に向い二度と戻らない兵隊さんばかり。郭にいても、いや、郭にいるからこそわかる、もうすぐこの戦争は終わる。日本の負けで……」
敏子の言葉に薫は力なく、座り込んでしまった。
「私と約束して欲しいの。薫は何があっても絶対に生き残るって。生き残って夢だった医者になるって。多くの人材が失われたこの国を立て直すには、あなたのような若くて志を持つ人が必要なの。その時が来たら、これを使って存分に勉強して欲しい」
あまりに高価なそれを見た薫は、敏子が人に咎められるようなことをしたのではと気が気ではない。そんな薫の思いを知った敏子は笑った。
「大丈夫。これは疚しいものなんかじゃないから。ここへ来る海軍の偉い方が、私の生い立ちを聞いてあなたが夢を果たせるようにと、これをくださったの。その方も言っていたわ。この戦争はもうすぐ終わると。その頃には多くの若者を戦地に送りだしてしまった自分も生きてはいられないだろうから、志のある若いあなたへこれを託すって」
この土地で海軍といえば、間違いなく自分の身近にいる上官の誰かであろう。
「その人の名前は?階級は?どんな人だった?ね、教えて、姉ちゃんっ!!」
「その方、何度もここへ来てくれてはいるけれど、自分の名も身分も明かしたことはないの。元は他の方たちに連れて来られたのだけれど、他の方たちは皆、戦地に行かれて今はもう……」
敏子の視線が悲しそうに彷徨う。
「ってことは、その人はまだ、生きて俺と同じ所にいるんだ。ならば、その人の特徴何かなかった?身体に黒子があるとか傷があったとか、ぁ……」
薫は自らの言葉の惨さに気付き、言葉を止めた。金で敏子を買った相手の身体の特徴を聞きだそうとした自分のあまりの思慮の無さに、唇を噛みしめながら俯いた。
「いいのよ、それが私の仕事だから。命を捨ててお国を護ろうとしてくれている人を、一時でも慰めることが出来て、私も今は誇りを持ってこの仕事をしているのだから」
敏子は毅然と顔を上げた。
「でも、その方。最初は同期の方々に連れられて初めて私の元へ来て以来、何度も私の元へ通ってくれたけれど、一度も私に触れたことすらなかったの。ただ、私の唯一の夢であり希望であるあなたのことを目を細めて聞いて朝を迎えて帰っていくだけ。だから私はあの人の姿しか知らない……」
「ねえちゃんは、その人のことが好きなのか?」
「郭の女が堅気の、それも海軍のお偉いさんを好きなるなんて」
敏子は声を上げて笑いだした。笑いながら敏子の頬に涙が伝ったのを、薫は気づかぬふりをし続けた。


 この日、敏子の手から万年筆を受け取ったのが、今生の別れとなった。ひと月後、敏子は肺を患い、生きてここを出られないと悟り納屋で首を吊って自死した。敏子は小さな白木の箱に納まり薫の胸に抱かれ、やっと郭を後にすることを許された。家には戻りたくないという敏子の生前の言葉のまま、薫は町はずれの小さな寺の一角に敏子を葬った。
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