海蛍 50

文字数 2,967文字

「カオル、水臭いじゃないか。日本へ帰る段取りが出来ていたって……」
人をかき分けジョージが前へ出た。
「弁護士の先生!いるんだろう?大切な話があるんだ。ここに出てきてはくれないか」
ジョージの大きな声に、真木はすぐに玄関先へとやってきた。
「カオルの帰国をどうか手伝ってやってはくれないか。
で、明日、先生が帰国する時に、カオルを一緒に連れて帰って欲しいんだ。
後でなんて言ってると、カオルは俺たちのことを理由にして帰国を断念するからな」
「私は、私は……ここでアランと……アランを見捨ててここを出るなんて!」
薫はジョージを見上げ睨んだ。
「カオル……お前さん、何か勘違いをしているようだな。カオルはアランを見捨てたりはしない。
俺たちが……この町の者皆がカオルを日本に送りだすんだよ」
「だってアランは病気で、町には医師もいないし……」
「その件は、俺がセイラムに今、話をつけ終えた。アランの柔らかな物言いが仇になっていたんだな。
俺が電話で怒鳴ったらセイラムの奴ら、来月には新しい医師をここへ送ると約束したよ」
ジョージは愉快そうに笑った。
「でも、医師が来るまでみんなは?アランだって誰かに診てもらい世話をしないと」
「必要があれば隣町まで俺たちが連れて行く。それにアランは俺の家で暮らすことに同意もしてくれた。
もう、カオルが悩んだり躊躇ったりする理由は何もねぇんだ」
笑みを浮かべたジョージが、薫に封筒を手渡した。
その場で中を見た薫の顔色が瞬時に変わった。
中には泥や皺だらけの紙幣やコインが入っていたのだ。
「今までこき使った対価には程遠いが、これは俺たちがカオルを日本に送りだす旅費だ。いいか、絶対に勘違いするな。お前は俺たちを見捨てるんじゃない。俺たちがカオルを送りだすんだ」

貧しい者たちが日々、稼いだ金を僅かづつ集めたのだろう。
この町の暮らし向きを知っている薫は、驚くと同時にその封筒をジョージに押し返した。
「受け取れません、これは!」
「戦勝国である我が合衆国でも、田舎にくると医者不足でこのざまだ。
敗戦で打ちひしがれている日本のことを考えてみろ。
お前はここを捨てて逃げるんじゃない。自分の本来の居場所へ戻って新たに闘うんだ。
武器をメスや薬に持ち替え、今度は日本で病気や怪我と闘うんだよ」
そう強気で言うジョージの背後でヘレンやアンナ、ニールが泣きながら笑っている。
「弁護士の先生よ、カオルの旅費は用意した。
だが、カオルは帰国しても生活に困ったり、ひもじい思いをしたりはしないのか?」
ジョージが問う。
「ミスターヒュウガが残した遺産はかなりのものであり、それを受け継ぐことに同意さえしてくれれば、何ら困ることはないでしょう」
真木の目にも涙がこみあげてくる。
「でも……でも、アランが、アランが……」
薫はアランにしがみついた。
「ここでカオルと暮らした日々を私は忘れない。
私はここで命ある限り、ビルに自分の持つ知識を伝授する。
私は死して消えるのではない。ビルが形を変えて私の命を継承してくれるんだ。
そして、カオル。君もそのひとりだ。
ここで学んだことを生かして、日本で医師になり一人でも病で苦しむ者を助けなさい。
私の思いは、この合衆国と日本両国に跨り生き続ける。カオルが医師である限り。
どうだ、素晴らしいとは思わないか?」
嬉しい励ましに、薫はついに首を縦に振った。
「真木さん、私は日本に帰ります。
そして、日向薫の名の下で、日向艦長とアラン、そしてこの町のみなさんの思いを忘れることなく、医師の道を志すことをちかいます」
薫は決意を口にした。
「あぁ、わかってくれたんだね、カオル。ありがとう」
アランはそんな薫の頭を幼子を慈しむかのように優しく撫で続けた。

「僕、必ず医者になります。この町でアランやカオルのように信頼され愛される医師になります」
ビルが薫に抱きつき言った。
「いつか会おう。互いに医師として……」
薫はそう言いながらビルの手を握った。
「わたしも、ドクターになるわ」
腰のあたりから、幼子の声がした。
皆が下を見ると、そこにはクロエが立っていた。
「クロエもお医者さんになってくれるのか」
薫に抱きあげられたクロエは、薫にキスをしながら言った。
「わたしがドクターになったら、はをぬかずにびょうきのひとをなおすの」
クロエのこの言葉に、みんなは大笑いをした。
「そうだね。レディの歯を抜かずに済む治療方法を見つける努力を私もするよ」
薫の言葉に
「やくそくね、カオル」
クロエはそう言うともう一度、薫の頬にキスをした。


慌ただしくも薫の帰国が決まり、アランは薫の身分証明書を発行してくれた海軍中将である叔父に電話で連絡を取った。薫が空港へ着くころには、そこへ特別な身分証明書を用意してすぐに出国できるよう手配することを約束してくれた。
心にまだ僅かに迷いのある薫をよそに、周囲は慌ただしく薫の帰国のための支度をする。そしてその夜、町では薫を労うお別れ会が行われ、町中の住人が診療所に押し掛けた。

酒を飲み、歌い、ダンスを踊り……
町は薫の記憶にその存在を刻もうとするかのように、華やかなひとときをかもし出し続けた。
誰もが泣かずに笑いはしゃぎ続けた。
町民全てが、薫の手を握り笑顔で感謝の言葉を伝えた。
みんなで今夜は泣かずに過ごすと約束をしたと、誰かが教えてくれた。
だから、薫も涙をこらえ笑顔のまま過ごした。


最後の夜、アランは薫と共に過ごしたいと言った。
薫はアランの部屋を訪ねた。
「カオル、これを君に返そう」
不意にアランから手渡されたのは、日向から貰ったあの万年筆だった。
「こ、これ!?あの日、海で亡くしたと、日向艦長と共に沈んだとばかり思って……」
磨かれた万年筆を両手で受け取り、薫はそれを愛おしそうに何度も頬ずりした。
「薫を救助した時、胸ポケットに入っていたんだ。
でも、漂流物にぶつかり続けて、私が手にした時には壊れて使うことが出来ない状態だった。高価で大切な物だとすぐにわかったよ。だからこそ、壊れて使いものにならないこれを見たらカオルはもっと深い
失意を味わうと思い、悪いとは思ったが口を噤むことにした。セイラムに行った時に、専門の職人を訪ねて修理をしてもらっていたんだ。カオルが医師になった時、これを渡そうと思っていた。しかし、帰国すると決めたのだから今夜がその時だと……」
「あぁ、アラン……ありがとうございます。嬉しいです。日向艦長と再び心が繋がった気がします」

薫は万年筆を手にしたまま、アランのベッドに入って寝た。
触れたアランの身体は痩せ細リ、骨格がわかるぐらいになっていた。

「幸せは無論だが、いいかい、カオル。いい後輩を育てるんだ。
己の医師としての上達は当たり前のことだが、大切なことは自分の学んだことを次世代へ繋いでいくことなんだ。いい先輩、指導者となって誰からも好かれる人間になりなさい。それが、ここを去りゆく君への贈る言葉だ」

互いにもう、二度と逢えないことはわかっていた。
互いの温もりを忘れぬようにと、ふたりは肩を寄せ合うように眠った。
そして、別れの朝がやってきた。
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