海蛍 51

文字数 2,641文字

 アランと共にここへやって来た時は、まさに着の身着のままだった。
あるのは傷付いた身体と、日向を失い空っぽになった心だけだった。
何もかもを失い、自分はどこまで流されて行くのかと、自分に起きることを他人事のように思っていた。
ジョージに背を焼かれた時、薫は初めて日向を恨んだ。
『なぜ、自分も連れて行ってはくれなかったのだ』と。
背を焼かれることが辛かったのではない。
自分が生きていること、ただ、それだけのことを許してくれない人がいる事実に絶望したのだ。

色々なことがあって……
四季の如く、自分の生き様も目まぐるしく変化し続けた。
やっと自分の居場所を得られた。心から笑える時を迎えた。
朽ち果てるまでこの大地で生きようと心に決めた。
しかし、日向の思いは脈々と生き続け今、薫を日本へ連れ帰ろうとしている。

旅立ちの手には大きな鞄。
中には着替えや薫の好物となったヘレンの手作りクッキーや、アンナ自慢のジャムがたくさん入っている。そして、胸ではアランが修理してくれた日向の万年筆が、薫の鼓動を受け止めている。
「そろそろ行きましょう、橋本さん」
真木は出会ってから、ずっと薫に敬語を使い続けた。
小作人の息子に、帝大法学部卒業の弁護士がこのような態度は不相応だと言ったが、笹本は態度を改めることはなかった。
「あなたは私の最初の依頼人であり、親友でもある日向の伴侶ですからね」
自分と日向のことを真木は知っているのだろう。
それでも真木は不快な様子を見せることなく、薫に敬意を払い続けた。
日向の存在と思いは、今もなお薫を護り続けてくれている。

薫が使っていたライナスの部屋。荷物を手にしながら、無言で見つめる。
あのベッドに突っ伏して声を殺して、どれだけ泣いただろうか。
『私は自分の居場所へ帰ります』
そう心で呟きながら、薫は深く一礼した。

ギシギシと足の動きに合わせて鳴る、古い木造の階段。
毎日、掃き清め手で拭き掃除をした。忘れぬようにと思いを込めて、手摺を強く掴んだ。

降りてすぐの右手側扉がリビング。
アランと深夜までカルテ整理をしたり、勉強を見てもらった。
薄くなったコーヒーの味が、薫には思い出の味になった。

壁にはめ込まれた暖炉。
そこにある火掻き棒でジョージたち荒くれ者に背を焼かれた。
痛みより、熱さより、自分が生きていることが悔しくて切なかった。
自分を医学校へ行かせようと、町の女達が入れ替わり立ち代わり来てくれた。
『毎日が楽しくて、生きている、ただ、それだけのことがお祭りのようでした』
と、薫は一礼した。

更に先に行くと左手には診察室。
初めての患者になったクロエ。
クロエを救うおうと、目の前でヘレンがジョージの足を撃ち抜いた時は驚き、言葉さえ出なかった。
自分が大怪我をした大男を何度も飛ばされながらもしがみ付き、アランが治療をした。
薬代が払えないと、おばあさんがたくさんの卵を持ってきてくれてアランと何日も卵料理を食べ続けた。
痩せたアランの身体の触診に胸が痛み続けた。
全てが大切な思い出となった。
『ありがとうございました』
薫は言葉を声にして、頭を深く下げた。
床に涙の痕がひとつ、ふたつ……

外に出ると朝靄の消えゆく中、町の者たちが集まっていた。
一番近い空港のある町までジョージが車で送ってくれると名乗り出てくれた。
アランは車での移動が身体には良くないと断念し、ここで薫達を見送ると、用意された椅子に座っていた。何かを……気の利いた、自分の思いを言葉にしてみんなに伝えなければと思うが、言葉が出て来ない。心が拒否しているのだ。『さよならなんて言えない』と。
「カオル、あれを見ろ。俺たち町の者の偽りのない気持ちだ」
ジョージの指さす自分の背後を、薫は振り返り見上げた。
もう、絶対に泣かないと決めていたはずなのに、涙がこれでもかとあふれ出た。
ジョージの指さした先には診療所の看板があったが、薫の意思で消したはずの『Dr,HASHIMOTO』の部分に、新たにペンキで『Dr,HYUGA』と新たに描かれていたのだ。文字は未だ濡れていて、朝日に照らされ輝きさえしていた。
「あ……」
薫は嬉しさで声さえ途切れた。
「ここはカオルの故郷なんだ。小賢しい理由なんていらない。
いつでも帰っておいで。私たちはアンタに受けた恩を忘れたりはしないよ。
おじいさんになって来ても大丈夫。子供にも孫にもその先にだって、カオルのことは伝えておくから。カオルは素晴らしいドクターだったってね」
そう言うとヘレンは薫を抱きしめた。
「私はここで新たな命を頂きました。
この命、国境も肌の色も、すべてを超えて病や怪我に苦しむ人々に捧げることを私はここで誓います!
私の……お父さん、お母さん、おじいさん、おばあさん、兄弟姉妹。
みんなありがとう。本当にありがとう!!」
薫も見送りに来た者たちも、皆が泣いた。

「さぁ、そろそろ行こう」
ジョージが薫の鞄を持ち車に積み込んだ。
「アラン……」
アランはそばの者の手を借り立ち上がる。
「いいかい、命は自分だけのものではないし、自分が死んでそれで尽きるものでもない。生きて生きて生き抜くんだ。私もライナスもキャプテン・ヒュウガも行きつくことが出来なかったところまで、その命で駆け抜けるんだ」
薫は骨の浮き出たアランの身体を抱きしめた。

車に乗りこんだとき、誰ともなく歌を歌い始めた。

♪~Amazing grace ~♪

歌声は次第に大きくなり、やがて町いっぱいに拡がった。
アメイジンググレイスの流れる中、薫の車は動きだす。
「ありがとう!ありがとうございますっ!みなさんのことは、絶対に、絶対に忘れません!!」
走りだした車が土埃を巻き上げ、次第に町の人々の姿を消す。
それでも歌は聞こえ続けた。
薫は最後まで『さよなら』の言葉を口にしないまま町を出た。


おしゃべりなジョージとは、車内で一切の会話がないまま空港で別れた。
最後、薫を抱きしめた時、ジョージはその背を何度も辛そうに撫でた。
この背中の傷で痛みを感じているのは、実は自分よりもジョージなのだと薫は気づいた。

二日後、出国の手続きを終えた薫は、真木と共にアメリカを後にした。
眼下に広がる街の灯りを、薫は目に焼き付けようとするかのように見続けた。
景色は次第に小さくなり、やがて薫の視界から消えた。
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