海蛍 29

文字数 2,435文字

 車は幾日も走り続けた。

勝利に浮かれる街を抜けると、砂漠のような大地が続く。土埃を巻き上げながら車は走るがどんなに走っても、目的地であろう地平線の果てに着くことはない。アメリカのスケールの大きさに薫は改めて驚くとともに、自分とは全く縁のなかった未知なる世界に心がざわつくようになっていた。途中、アランは運転を教えると、薫を運転席に座らせもした。毎日が未知なるものとの出会いであり、薫は日向を忘れることはなかったが、日向のことで泣く暇などはなくなっていた。

 旅の途中、薫たちは急な病や怪我で困っている者に幾度も遭遇した。その都度、アランはありあわせの薬と機材を上手く使いこなして危機を脱した。喪失感しかなかった薫の目にアランの姿は、生き残った者が何をしなければならないのかを伝える魂の救世主として映る。

 何日目かの夜だった。次の町までは優に300キロはある。酷い雷雨にアランは路肩に車を止め車中泊をすると言った。悪天候で深夜の田舎道。しかも古いアランの車はどこからか雨漏りも始まったが、アランはラジオから流れるカントリーのメロディを少し外れた音程で口ずさみながら気にすることはない。小さなランプをふたりの間に置くと薫はアランが今日まで処置を施した内容をメモした紙を取りだし読み返しては新たにコメントを書き入れる。
「カオルは本当に真面目なんだな」
アランが半分にちぎったパンを差し出しながら言った。薫は礼を言いながらそれを受け取ると、すぐに頬張る。目がメモから離れることはなかった。
「私が生き残るために、多くの尊い命が犠牲になりました。本当だったら今すぐにでも死んでしまったあの人に会いたいけれど、あの人はそんな風に追いかけて来る私を決して許しはしないでしょう。私は精一杯、生きることにしました。あの人が言ったように、天寿を全うして堂々とあの人に会いに行くことに決めたんです。でも……」
初めてアランの前で薫は堪えきれずに笑いだした。
「くっ……あの人は若く凛々しい姿で旅立ったけれど、後を追う私はきっとしわしわの老人になっていて、あの人は気づいてくれないかも」
「愛し合っていたのかい?」
「……愛し合っていますよ、今でも」
薫は真剣な眼差しで答えた。

 轟く雷鳴と共に瞬間、辺りが昼のように明るくなる。雨脚はますます酷くなり、アランは首をすくめながらラジオのスイッチを切った。薫はごく自然に自分の生い立ちを話し始めた。貧しさゆえ、わが子である自分も姉の存在までも実の親から疎まれたこと。そんな中、薫の夢を知った姉敏子が身を売ってまで自分を学校へ通わせてくれたこと。しかし、医学を学ぶには小作人の倅にはあまりに金が掛かり過ぎて挫折。それでも医学への想いは立ち切れず海軍の衛生兵に志願して、日向の艦に乗ったことを淡々と話した。

 薫に取ってアランは人種を超えた生まれて初めての親友になっていた。アランが自分を殺したとしても、戦勝国の兵士であるアランには余るほどの言い訳がある。しかし、アランは一貫して薫を差別することなく対等な人間として扱ってくれた。日向も自分を慈しんでくれたが、アランのそれが友情なのだと雨の中、薫はやっと気づいた。
「アランには汚らわしいと思われるかも知れないけれど……」
薫は日向とのことを話し始めた。姉以外、生まれて初めて自分を人間として扱ってくれた日向に対して、本来、同性へ持つべきではない情愛を抱いてしまったこと。日向は立派な人間であり部下が薫を犯したことに責任を感じ、そして、自分の境遇を憐み自分の気持ちを受け入れてくれたこと。山の中での温泉で満たされた時間を過ごしたこと。そして、日向の部下として同じ艦に乗り出撃したが日向は最後まで自分を護り自らの腕を切り落としてまで薫を生かしたことを、時に言葉を途切れさせながら話した。気付けばあたりは静寂に包まれていた。それまでの雷雨が嘘かのように空には星が瞬いていた。アランはドアを開け外に出た。
「星が綺麗だな」
そう言うと無言のまま空を見上げ続けた。やはり言うべきことではなかったかと薫はばつの悪い思いで車から降りるとアランの横に立った。そして言った。
「今の話、すべては私の勝手な思いから始まったことなんです。人の道に外れるようなことを仕向けたのは私であり、日向艦長は情け深い素晴らしい人だったことは理解してください」
「カオルは命をいくつ持っているんだい?」
それは、薫の話にそぐわないアランからの問いだった。
「命って……ひとつに決まってます。ひとつしかないから、大切にしなければならないし……」
「その大切なたったひとつしかない自分の命を、カオルは同情なんかで簡単に他人に差し出したりできるのかい?」
薫はその問いに対して言葉を詰まらせた。
「キャプテン・ヒュウガが太平洋上でどんな思いで自らの腕を切り落としたのかを、目を逸らすことなく考えるべきだと私は思うよ。キャプテン・ヒュウガは君を命懸けで生かした。キャプテン・ヒュウガもまた、君を愛したという事実を歪曲してはいけない。それはキャプテン・ヒュウガを冒涜することにもなるのだから」
今、異国の地で僅か前まで「鬼畜」「敵国人」と教え込まれていたアランが、自分と日向のことを認めてくれたことが嬉しかった。
「いいかい、自分の幸せは他人の価値観で決めるものではないんだ。さぁ、ひと眠りしようか。このオンボロ車が壊れる前に何とか故郷に行きつかないとな」
アランは笑いながら大きな手で、薫の頭を少し荒っぽく撫でた。

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注:(アメリカ海軍では『大佐』を『Captain(キャプテン)』の名称で呼んでいました。同じ階級である『大佐』=『Colonel(カーネル)』の名称は陸軍と陸軍航空隊で使用されており、この話ではアランが日向を『大佐』=『Captain』と呼んでいます。
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