海蛍 20

文字数 2,578文字

 日向の背から肩を掴み頬を寄せる。たったこれだけのことを、どれだけ長く自分は望んでいたのだろうかと思う。自分の命よりも大切だと思える人が目の前にいて、その人に触れて鼓動を感じられることがこんなにも幸せなのか。敏子がいなければ、自分は人を想い焦がれることも知らずに死んでいったのかと思うと、この出会いを用意してくれた敏子に感謝せずにはいられない。
「ありがとう、姉ちゃん……」
縋り付いたその背に薫は呟く。

 ひんやりとした日向の背と、自分の異様なまでに熱を帯びる温もりの差を感じ薫は我に返った。
「申し訳ありませんっ!あ、あの、自分は大佐に対して何と失礼なことを」
薫はそう言うと同時に、勢いよく日向から離れた。敏子のことがあったから、ここまで自分に対して優しく思いやりを見せてくれていたというのに、日向の優しさに甘え自分は一体、何ということをしてしまったのだろうか。自分など足元にも及ばない身分の日向に対して……自分の自制心の無さから日向が呆れ去ってしまうのでは。深く頭を垂れたまま薫は慄く。
「姉ちゃんか……橋本は本当に敏子さんのことが好きだったんだな」
シャツを羽織りながら日向は言った。
「ご両親とは縁が薄かったと聞いていたし、お前に取って敏子さんが姉であり父であり母であったんだろうな。平和だったら今頃は、日々楽しく敏子さんとも笑顔で会えていただろうに。気にすることはない。私に敏子さんの代わりが出来るはずもないが、こんなことでお前の気持ちが少しでも和らぐのであれば」
シャツのボタンを留め終えて、日向は震えながら頭を下げ続ける薫に近づき頭を撫でた。
「気持ちよかったよ、ありがとう。さぁ、そろそろ帰らないと女将さんが待っている」
日向は自分の中の邪な気持ちに気付かず、ただ姉を慕うあまりの行為だったと思っているようだ。
耳元で敏子が『ふふっ、大丈夫よ、薫』そう、囁いた気がした。
亡き敏子が窮地を救ってくれたのか。日向の勘違いに感謝しながら深呼吸をして何事もなかったかのように顔を上げると、日向が自分を見つめている。やはり、日向は不愉快な思いをしていたのだろうか。思わず身が竦む。
「なぁ、橋本。私からもお前に頼みがあるんだ」
「自分に出来ることでしたら、どんなことでもさせていただきます!」
薫は日向を見上げる。
「宿の近くまでお前を背負わせてはくれないか?」
「日向大佐が自分を……で、ありますか?」
「さっきのお前の言った『姉ちゃん』の一言で決心できた。笑ってくれてもいい。私はいつか老いた父母を背負って歩きたいと思っていたんだ。ここまで育てて頂き、ありがとうございましたって気持ちと共に。思ってはいたが、まさかこんなにも早くふた親が骨も残さない様な死に方をするなんて考えてもいなかった。こんな時世でも幸せに思えることは今日まで多々あった。ありがとうございますとの気持ちがあっても、私にはもう背負うべき親はない。何だか今日は人恋しくてな。お前を背負って歩きたくなった。生まれて来たことを、今日まで生かされたことを感謝しながら……」

 親から愛情を貰えなかった自分は不幸だと常に薫は思っていた。しかし、親の愛情を受け育ったからこそ日向のような悩みや苦しみもあるのだと、薫は初めて知った。そして、自分の浅はかさを深く恥じた。
「自分なんかが、いいんですか。本当に……」
戸惑う薫の姿に自分の言動が拒否されてはいないと知った日向は、穏やかに顔を綻ばせると膝をついた。
「さぁ、背負わせてくれ」
「は、はいっ……」
バケツや釣竿を手に薫は屈んだ日向の背の前に立つ。少し動いてはバケツや竿が日向にぶつかり、それを手にしたままどうやったら日向の背に乗れるのかを小首を傾げ悩む。
「持っているものを俺に寄越せ。お前は落ちないようにしっかりと俺にしがみつくんだ」
向きを反転させると、日向は薫の持っていた道具すべてを手にした。
「失礼します。あ、あの、重かったら言ってください。すぐに降りますから」
薫は日向の背にしがみ付いた。それを確認した日向は腹に力を入れると、すっと立ち上がり歩き始めた。日向が歩き出すと、薫の身体は左右に揺れ思わず声を上げそうになる。
「そんなことをしていたら落ちるぞ。ちゃんと俺の身体を掴め」
「はい……」
日向の胸の前で両腕をクロスさせ力を入れる。フワついていた薫の身体は日向の動きと一体化する。脈が、呼吸がひとつになり、草をかき分け進んでいく。
「大佐っていつもこんな風景をみていたんですね」
「風景?」
「えぇ、風景です。自分より背の高い大佐とこんなチビの自分では、こんな風にも見えているものが違うんですね。自分は何だか偉くなった気がします」
薫は笑った。
「でもな、私が見たいのはいい風景などではないんだ。どうやっても見えないもの……見えないから気になる。見えないから不安になって相手に言葉を貰いたくなる。言葉なんて不確実の上に成り立っているようなものなのにな」
日向の言葉に、薫は昨夜の酒の席での言葉を思いだした。
「大佐はやはり、想う方がいらっしゃるのでは?」
「いいんだよ、もう」
薫の問いかけに、日向は力なく答える。大佐にまで上り詰め、人格者である日向に女性の影がない方がおかしいのに、自分は何を勝手に浮かれていたのか。日向を掴む手の力が緩みだす。
「これもお前が言った言葉だっただろ?」
日向は言った。今度は笑うことなく。
言葉は風に流され、思いと共に草深く消えていく。

 ふと日向が立ち止まり東の空を見上げる。辺りは次第に薄暗くなり蒼白い月が静かに静かに上り行く。日向の視線に合わせ薫も月を見上げる。
「月が綺麗だな……」
背にいる薫に日向は言った。ふたりは無言のまま月を仰ぎ見る。僅かな間の後、何も言わない薫に日向はフッと息を吐き微かに笑った。
「さぁ、急ごう」
日向は再び歩き始る。
「……死んでもいい」
背で薫が呟いた。日向は立ち止まり視線を彷徨わせる。

夏目漱石は「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したという。対して二葉亭四迷は「I love you」を「死んでもいい」と訳したという。

日向の身体に絡ませた薫の腕に力が入る。青い月が照らし出すふたりの影はひとつになっていた。
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