海蛍 40

文字数 2,476文字

あれから8日目の朝を迎えていた。

ニールが手配した薬は、命の刻限ギリギリでクロエに投与された。
しかしクロエの意識は戻らぬまま、病魔との戦いは一進一退を繰り返していた。
どんなに細心の注意を払っていても、音と光の僅かな刺激はクロエの神経を逆なでし小さな身体が折れるくらいに硬直し、弓のように背が反り曲がる。
神経回路が暴走し、意思に反し奥歯を噛みしめ呼吸すら出来なくなる。
このまま舌を噛みきりでもしたら、治療以前にクロエは死ぬ。
苦しさ故か、物言えぬクロエは涙を流す。
ジョージもヘレンも唇を噛みしめ声を殺し、わが子の哀れな姿を見つめるしかない。
気道確保のために薫は、噛みしめたままのクロエの歯をへし折った。金属トレーに血に塗れたクロエの乳歯がバラバラと放られた。ヘレンはそれを見て気を失った。あまりに酷い、治療とも思えぬ行為に思わずジョージは薫に掴みかかった。薫を殴ろうとその顔を見たジョージは、直ぐにその手を緩めた。
薫は泣いていた。泣きながらクロエを救うために、その歯をへし折っていたのだ。

薫もヘレンもジョージも、そして町中の者たちが一丸となって、クロエを掴んだ死神の手を引き剥がそうと、不眠不休のゴールの見えない戦いの日々を続ける。
医学の知識のある薫の代わりはなく、薫はふらつき倒れそうになりながらもギリギリのところでクロエを死神の手から奪還しようと奮闘する。
「何かあれば呼ぶから、少し休んでくれ」
布で覆われ昼夜もわからぬ診察室で、クロエに付き添う薫にジョージが囁く。
「自分は大丈夫です」
そう言いながらクロエのそばに行こうとする薫を、闇の中でジョージは自らの身体を盾にして阻止した。
「向こうでアンナたちが食事の用意をしている。アンタがクロエを思う気持ちは十分に分かっている。しかし、まずはスープだけでも飲んで来てくれ。なっ、ドクター」
薫の耳元でジョージが囁く。
あれだけ憧れていた「ドクター」の名が、今は鉛のように重く薫に圧し掛かる。
薫は無言で頷くと部屋を出た。


 居住スペースのリビングは今、町の者たちが自由に出入りしていた。クロエを救うために女たちは洗濯や料理などの診療所での役割を分担してこなし、男たちも薫が治療に専念出来るよう率先して何でもした。
「さぁ、これを少しでも飲んで横になって」
薫を案じた消化の良い家庭料理が並ぶテーブル。スープからは手招きするように湯気が踊っている。
瞬間、テーブルが二重に見え、同時に身体の前後左右が分からなくなった。
声を上げる間もなく薫はその場にしりもちをつき崩れるように座り込んでしまった。
「ドクター!?」
女たちが驚き駆け寄り、薫の身体を支えた。
「大丈夫です、だい……っ」
言葉と身体の動きが一致しないまま、薫は立ち上がれず動けなくなった。
「ドクターは“Physician, heal thyself(医者よ、汝自身を治せ)”ってことわざを知ってる?」
アンナは動じることなく、座ったままの薫の手にスープの入ったマグカップを手渡しながら言った。
「日本でも同じ意味のことわざがあります。“医者の不養生”って……」
薫はポツリとそう言うと、立ち上がることを諦めそのままカップに口をつける。
スープのぬくもりが、自分のことを『ドクター』と呼び受け入れてくれた町の人々の思いに思えた。
「無理ばかりして、自分のことなんて考えもしなくなった時はね……
自分の大切な人のことを思いだすの。その大切な人が同じ様に無理をしていたら、自分ならば何と言うかって。『少しは休んで』『無茶しないで!』どう?色々と言葉が浮かぶでしょう。
そうしたら、その言葉を大切な人が自分に向けてそれを言ってることを想像するの」
アンナの言葉は薫の心の奥底から、封印していた日向の存在を引きずりだした。

『生きろ、何があっても生き抜け』

その時、日向の声が聴こえた。確かに薫には聴こえた。
「余計なことなど考えなくてもいいの。
その大切な人の言葉を受けて、自分がどうするべきかを考えて……
今、何が起きたとしても、もうこの町の者は誰もあなたを責めたりはしないわ。
少しだけ、少しだけ休みましょう、ドクター」
アンナの言葉が薫を包み込む。薫の頑なな心に、その言葉は静かに染み入り、幼子のように無防備にされていく。既に心も身体も限界を超え悲鳴を上げていた。意識が次第に遠のいていくことが心地よくなってくる。と、その時だった。
「ドクター!クロエが、クロエがっ!!」
診察室からジョージが大声で叫んだ。
薫は瞬時に立ち上がると、転がるように診察室へ駆け込んだ。
マグカップが転がり、床を濡らし揺れていた。


暗い部屋の中でヘレンがベッドにしがみ付き嗚咽を漏らしている。
「クロエは!?」
闇に慣れた薫の視線が、開いたクロエの視線と重なる。
薫から目を逸らさずクロエは呟いた。
「注射はいやなの……」
「ドクター……クロエは、クロエは!?」
ヘレンが泣きそうな声で薫に問いかけた。
張り巡らされた布を1枚づつ、ゆっくりと慎重に剥がしてもらう。薄暗い部屋の中で薫は丁寧にクロエを診る。
「もう、峠は越えました」
「あぁ、神様っ!!」
薫の言葉にジョージとヘレンは抱き合い何度も頬を重ねる。
その様子を出入り口から嬉しくも気遣いながら見つめる町の人々。
「あと1時間くらい様子を見て、問題がなければ薄めたスープをスプーンでひとすくい飲ませてください。その後、更に1時間様子を見て大丈夫ならば最初と同じ濃度のスープをスプーンで二杯。湯冷ましも同じ量で。経過を診ながら、明後日からはパンをミルクに浸したものからならいいでしょう。今は歯が無くて食べるのも大変だけれど、クロエの取り除いた歯は乳歯なので、数年後には綺麗に生え揃うでしょう。そして……そして……」
「ドクター?」
言葉の途絶えた薫を見るジョージ。意識の戻ったクロエの姿に安堵した薫は極度の緊張感から解放され、ベッド横で跪いたまま気を失っていた。
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