海蛍 36

文字数 1,441文字

 背中の激痛と震えのくるほどの寒さの中、薫は目覚めた。アランと夢を語りあいながら磨いた床の上に自分は突っ伏すように気を失っていて、その床は泥にまみれている。現実と夢の区別が付かず薫は動かぬまましばし呆然としていたが、切られるような背の痛みに昨夜、自分の身に起きたことが脳裏に鮮明に蘇ってきた。鼻腔奥に残る『何かが焼けた匂い』が実は自分のものだったと知ると、恐怖と不快感に押し上げられるように、その場で嘔吐した。起き上がることも出来ぬまま薫は自らの胃液に塗れたまま呆然とする。

 燃え盛っていた暖炉は全ての薪を焼き尽くし、そこに何も残ってはいなかった。暖かかった部屋は薫が吐く僅かな息も白く見える。見上げた視線の先には青空が見えている。既に陽は高く登っているようだ。このままではいられない。診療所の手直しも勉強も、やらねばならない仕事は山積みだ。
「起きなきゃ……」
立ち上がろうとするが、四肢に力が入らない。
「起きてどうする。お前は必要ないとここまでされたんだ。起き上がり俺は誰のために、何をしたらいいんだ!?」
薫はそう自問自答をする。

 窓の外、悠々と真っ白な雲が流れて行くのが見える。日向と釣りをした日を思いだす。青空の下、こんな風に雲は流れていたということを。自分と出会った日向は、何があっても自分のことを最優先に考えてくれていた。たったひとつの和菓子でさえ、薫が喜ぶことを読み越していてくれもした。薫の笑顔に自分の幸せを重ね、自らの身体を盾にして、そして、死んでいった。しかし、日向が護ってくれたこの命は、何処に行っても疎まれる存在でしかない。
「なぜ……なぜ、ご一緒させてくれなかったのですか」
口惜しさで握った拳が微かに震える。

『拳が震えているな。力がまだ、残っているじゃないか』

耳元で聞こえた声は、日向のものだった。
『立て、立つんだ、橋本』
上官である日向の命令に、薫は痛みも忘れ一気に立ち上がった。ふらついた身体を何とか踏ん張り直立不動の態勢を取る。
『橋本衛生兵へ命令ずる。生きろ、何があっても生き抜け。自決は絶対に許さない』

日向の低めの凛とした声が、薫には確かに聴こえた。殴られ腫れた瞼から、その声の主は見えることはないまま、辺りは再び静寂に包まれた。腫れた瞼の隙間から、涙が止まることなく流れ落ちる。
「き、来てくれたんですね、日向艦長。俺があまりに弱くて情けなくなって、それで、それで……」
薫は新たに足を揃え背筋を伸ばし敬礼をする。
「橋本薫衛生兵は、如何なることが起きようとも日向艦長の命令を必ず遂行します。どんな時にも絶望することなく、私は生き抜きます。そして、寿命が来た時、堂々と日向艦長にお会いしに行きますっ!」

 這うようにして外へ出て、井戸水で何度も背に水をかけ今更ながら火傷部位を冷やす。アランがやっと手に入れた貴重な抗生物質を薬品庫から持ち出すと、アランに深く詫びながらそれを飲んだ。動くたびに激痛で脂汗が滲み、それが火傷痕を流れ落ちる。幾度も心が折れそうになるが、日向の命令を改めて受けた今、もう弱音は吐けない。泥と吐瀉物に塗れた部屋を薫は少しずつ少しずつ片付け始めた。



 あの惨事から三日が過ぎた早朝だった。
診療所の扉が勢いよく開き、尋常ではない足音と振動に薫は思わず立ち上がると身構えた。
「助けて、お願い、娘を助けてっ!!」
幼子を抱きしめブロンドの髪を振り乱した女性が、リビングへ飛び込んで叫んだ。
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