海蛍 45

文字数 3,223文字

 自らの夢をビルに託し、それでも自暴自棄にならず診療所でアランの片腕となり町で過ごしていた薫は、ここで二度目の冬を迎えていた。
向学心のあるビルの成長は目覚ましく、大学進学まで時間があることにより町ではその資金を溜める猶予が出来たと皆が安堵していた。しかし、身体に爆弾を抱えていたアランは次第に痩せ体力も無くなり、薫がアランの代行をすることも多くなっていた。誰もが口にしなかったが、アランがそう長く生きられないことを皆は心の中で悟っていた。

2月に入ってすぐの、吹雪の午後だった。
「オレゴンでもこんなに酷い吹雪があるんですね」
厚い鉛色の雲が町を低く覆い、薫は診察室に照明を灯す。
明るくなった視界に入ってきたのは、いつにもまして顔色の悪いアランの姿だった。
「今日、ビルは?」
「天気の予想はしていたので、自宅でするようにと私が宿題を作ってビルに渡してあります。今頃、学校を終えて自宅で宿題をしているはずです」
吹雪の中、ビルが来ないことを知ってアランは、表情を和らげた。
「カオル、ここへ来てはくれないか」
アランの呼びかけに、薫は手にしていた書物をテーブルに置くと、アランの前に立った。
「さぁ、よく診ておくんだ」
アランはそう言うと、上着を脱ぎ始めた。
「私の身体はそろそろ末期と呼ばれる時期に入ってきた。食事への意欲はまだ多少は残ってはいるが、身体が受け付けなくなってきている。ここを触れて確かめるんだ。前よりも腫瘍が大きくなっているのがわかるだろう?全身に転移し始めていると考えていいと思う」
アランは感傷的になることもなく、薫に被検体としてその身体を抵抗なく診せ続けていた。今の薫に取っては、最も辛く切ないひとときだった。
「痛みは……」
「カオルに心配させたくはないから『大丈夫』と言いたいけれど、医学を教える立場では嘘は吐けないな。最近、かなり痛みが来るようになっている。食欲不振、精神的に不安定になるのは、これが大きな一因だろう」
アランの言葉を唇を噛みしめながら聴き、何も感じないかのように触診を続ける。
「カオル、実は相談があるんだ」
薫に上着を着せられながら、アランが呟くように言った。
「なんでしょう?」
急いて何か指示を仰ごうとしている薫を制して、自分の横に座らせたアランが窓を叩きつける雪を見ながら言った。
「自分の診たてでは、カオルが医科大学を出るまでは、何とか頑張れそうだと思ったんだが、どうも自分が思う以上、私はヤブ医者だったらしい」
アランのその言葉に薫は何も言えずに黙り込む。
「ビルを医者にとは言ったが、あの子が医科大学を出るまですべてが順調に行っても、私の身体の方が持ちそうになくなった。カオルが大学に進んでいれば、どんなことがあっても生き抜いて待っていただろうにな」
口惜しさを滲ませるアランに、薫もまた窓を叩く雪を見ながら言った。
「もう、その話はしないって約束したはずです。
夢は消えたのではなく、代わりにビルが背負って歩き始めた、だたそれだけです」
「そうだったな、済まない。また蒸し返してしまって。
この病。末期に近づくと、悲観的思想も起きると認識して、今後の患者への対応として心得ててくれ」
アランは尚も薫と視線を合わせることなく言った。
「……わかりました」
薫の言葉が窓を叩く吹雪の音に消された。

「ここからが本題なんだが。如何なる事情があっても、ここを医師不在にする訳にはいかない。しかし、ビルはまだ大学生にもなってはいない。カオルがいくら優秀であっても、ここで独自の判断で医療行為を行うことは法に触れてしまい、君の立場が危うくなる。去年のクリスマス前、私はセイラムに自分の病状を説明した上で、ここへ医師を派遣してもらえるように請願をしたんだ。で、今朝、やっとその返事が来た。今年の秋に、ここに医師が来ることになった」
「本当ですか!?」
「喜んでくれるのか」
破顔する薫にアランは言った。
「当たり前じゃないですか。新しい医師が来てくれるなら、アランの負担が軽くなって気兼ねなく療養もできるし」
「しかし、その医師が来ると今まで通り、カオルが医療に関わることができなくなるだろう。今までは私の助手と言うことで皆が納得してくれたが、新しい医師の下ではそれは難しくなる」
アランは自身のことではなく、町のこと、そして、薫の身の置き場を考え悩み続けていたのだ。
「新しい医師が来ても、私はアランと暮らしていてもいいんですよね」
「もちろんだ」
「だったら、新しい医師が来たらここを出て、郊外にあるミラーさんの空き家を借りましょう。春になったら早速お願いして私が手入れをします。で、私が畑仕事をします。製材所や他の人たちの仕事の手伝いをすれば、二人で暮らす収入ぐらい何とかなります。二人で暮らしましょう、静かに、心安らかに……」

胸の奥がちりちりと焼けるような痛みを感じた。
これと同じ様な言葉を自分は過去にも確かに言っていたと記憶を辿る。

『もう、私は海は遠慮します。日本に戻ったならばふたりで百姓でもしませんか?
大地に足を着けて新しい人生を始めるんです。田畑を耕して……』
『まずは身体を治すことが先決です。私が日向艦長がお元気になられるまで、精一杯お世話を致します』

あの時、自分は日向のことしか考えられなかった。日向と運命を共にすることに何の疑念もなかった。しかし、その運命は大きく転換し、敵であったはずのアランに助けられ、日向へ向けた言葉を今、自分はアランに……
恩人であるアランがいなくなるなんて考えたくもない。しかし、アランがいなくなったら自分はどうなってしまうのだろう。いや、今は命を削ってまで町や自分のことを考えてくれる、アランのことだけを考えなければ。
「私は器用な人間ではありません。今はアランのことだけを考えていたいんです。いけませんか?」
薫の言葉にアランは黙って頷いた。

雪は激しく叩きつけながら、不安・疑念・悲しみすべてを覆い降り積もる。


 草木が芽吹く時期を迎えた。人々は待ちわびた春を歓喜の中で謳歌する。
往診を断り、薫の助けを借りながら診療所での診療だけをするようになったアラン。
薫は少しでも早くセイラムから医師が来てくれればと思う反面、医師が来ればアランの緊張は無くなり、気力や生命力までもが削がれてしまうのではと気が気ではない。

春風が強く、砂塵が巻き上がる昼下がり。
その知らせは何の前触れもなく、あまりに突然にやって来た。

「カオル!カオルはいるか!?客人を連れて来た」
ジョージが大声で叫びながら、慌ただしく診療所の扉を開けた。
ちょうど、足を怪我した子どもの手当を済ませた薫は、その声に顔を上げた。
「私に……ですか?」
「あぁ、確かにお前さんにだよ」
ジョージは背後にいた客を診療所の中に招き入れる。
見知らぬ背の高いスーツ姿の男だった。風貌は日本人そのものである。日系人なのだろうか。英語で話し掛けようとした薫よりも先に男は、懐かしくも流暢な日本語で挨拶をした。
「初めまして。元日本海軍所属だった橋本薫様ですね?」
使わなくなっていた日本語を徐に出され、薫は驚き息を飲む。
「私は東京で弁護士をしている真木と申します。
この度はあなたの元上官だった日向総一郎氏からの依頼で伺いました」
心の中に無理矢理押し込めていたその名を口にされ、薫は瞬時に全身に熱を帯びる。
「日向……日向って、日向艦長のことですよね?依頼されたってことは、艦長は生きてらしたんですね!」
薫の悲痛なその問いかけに、真木は即答することはなく表情を崩すこともなかった。
『日向』の名にアランはただならぬ気配を感じる。
「カオル、大切なお客様のようだ。奥へ入っていただきなさい。」
アランの言葉に薫は我に返り、真木を奥へと招き入れた。
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