海蛍 37

文字数 1,659文字

「助けて、お願い。娘を助けてっ!」

 彼女の腕の中には三歳前後の子供がいた。彼女が『娘』と言わなければ、薫はそれを精巧に出来た人形と思う程に、その子供には生気が全く感じられなかった。そして、全身を硬直させ苦しそうに身体を仰け反らせた。
「診察室へ!」
そう指示しながら薫は、クローゼットから洗いざらしの白衣をひったくるように掴むと、素早くそれを羽織り母娘の後を追うように自らも診察室へと入った。動くと背中の傷が痛み顔を顰めたが、診察室へ入ると同時にその顔は一人の医師として凛としたものになっていた。ここにアランはいない。敗戦国の一衛生兵である自分しかいない。逃げも隠れも、誰かのせいにもできない。薫は腹をくくった。

 焦りから声が出ず涙と震えが治まらない母親に、その子を診察台に寝かせるように手で促す。
「娘さんの命にかかわる大切なことを質問します。落ち着いて正確に答えてください」
薫の静かな問いかけに彼女は頷く。
「いつから、どんな症状が出て来たのか、その症状に対する心当たりがあればそれも教えてください」
ゆっくりと薫は問いかける。
「い、一週間前に自宅物置でクロエは古い釘を踏んでしまって……痛がってかなり泣きました。そこは日に日に赤黒く変色し腫れてきました。と、同時にクロエはだんだん元気がなくなってきて、顔、顔が!引きつったように歪んで……で、喋ることができなくなってきて、ついに口が開かなくなったんです!夫が隣町の診療所に連れて行くというので支度をしていたら引きつり笑いをしながらこんな風に仰け反って……隣町まで馬車で何時間も掛けて行くなんて私、無理だって思ってそれでここへ」
彼女は診察台で苦しそうに仰け反る娘を押さえながら、縋るような目で薫を見つめた。クロエの身体に触れ、目や口の状態を診る。そして、釘を踏み抜いたという傷に目をやる。その足は赤から黒へと変色を初めていた。薫が一瞬息を飲む。クロエの身体が硬直し始めていたのだ。それは、毒素は神経の一部に接合し神経の抑制系が侵され始めていることを示す重篤な兆候でもあった。薫は思わず天を仰いだ。
「娘さんは破傷風です。一週間前に踏み抜いた古釘により感染したのでしょう」
薫の言葉に母親は力を無くし、その場へとへたり込んでしまった。

 破傷風の死亡率は今も50%と言われている。医療体制が整っていない土地では、限りなく100%に近い数字となる。戦後、アメリカと言えども薬品や医師不足などにより、地方での破傷風発症は死を覚悟する感染症でもあった。薫はすぐに薬品棚を開けて、そばにあった薬品備蓄一覧と照らし合わせて薬品のチェックを始める。しかし、薬品はアランがセイラムから戻らねば万全とは言えない状況だった。アランからこの土地に住むのなら、破傷風の対処の仕方を心得ていないといけないと何度も何度も教えを受けた。しかし、それを実践するには使うべき薬品や医療備品があまりに少なすぎた。

『落ち着け、落ち着くんだ。使うべき物がなければ、代用出来る物を探し出せばいいんだ。ある、きっと代用できる物をアランはここに残しているはずだ!』

動揺からの手の震えを悟られぬよう、薫はいくつかの薬品を手にすると母親に向って言った。
「これから娘さんは大変な闘いに挑むことになります。私も命懸けで闘います。どうか手伝ってください」
薫がクロエを見捨てずに、病と闘うと宣言したのを聞いた母親は跪いたまま薫を仰ぎ見る。
「何でも言ってください。言われた通りに動きます!」
母親は涙を拭き立ち上がった。
「奥の備品庫にたたんであるカーテンやシーツがあります。ありったけここへ持ってきてください、すぐに!」
駆けだした母親の足が出入り口で止まった。
「早くっ!」
しかし、母親は動こうとはしない。思わず振り返った薫。
「俺の大切な一人娘を、黄色いサルのお医者さんごっこにつき合わせるわけにはいかねぇな」
その視界に入ったのは、憎しみを滾らせライフル銃を構えたジョージの姿だった。
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