海蛍 24

文字数 2,608文字

 命の刻限の迫る中、抱きしめられたことが嬉しかった。響き渡る爆音もすべてを焼き尽くそうとしている業火や異臭も気になどならない。死を目前にしたからこそ、やっと繋げた手だった。もうすぐ消えるはずの命から発せられる日向の温もりが甘美なほどに心地よい。力をこめ抱きしめた後、日向は薫を静かに引き離した。
「生存者は」
「敵戦闘機による爆撃で格納庫は爆破炎上。甲板に避難した者、応戦していた者の中に既に生存者は……な、く」
今見て来たことが脳裏に鮮やかすぎるほどに蘇る。言葉が続かない、いや、続けて何を報告すればいいのだろう。
「生存者は俺たち以外にはいないのだな?」
「……はい」
薫の返事に日向は頷いた。日向は机の中から短剣を取りだすと、それを薫に差し出した。
「艦長である私から最後の命令をする。橋本衛生兵はただちに退艦の準備をし、速やかにそれを実行せよ。生きるために必要なものをこの艦から選別し、それを持ち脱出。ただし、敵の的になるようなものは選ばず浮遊物に紛れるようにするんだ。敵さえいなくなれば、大海原であっても生きる望みは僅かでも出てくる。これがお前の助けになるだろう。持って行くんだ」
差し出された短剣を受け取らず、薫は不思議そうに日向の顔を仰ぎ見る。
「復唱はどうした?」
「ま、待ってください。艦長はどうなさるのですか?一緒に行動されるんですよね?」
薫は目に涙を溜めながら問う。
「私の不甲斐なさから多くの未来ある若者たちの命を奪う結果となってしまった」
「それって……」
「いや、私は責任を取るなどいう烏滸がましいことを言うつもりはない。ただ……橋本。艦長には『艦と運命を共にする権利』が与えられているんだ。こんなに立派な艦を与えられ、多くの部下たちと共にこの大海で眠る権利が。死に行く俺よりも生きることを選択するお前の方が何倍も何百倍も辛く苦しいだろうが……」
「ダメです!あなたには生き残って、この不毛な戦いの顛末を語り、すぐさま止めさせる義務があるはずです。死ぬのはいつでもできます。でも、ここで死ぬよりも、恥を覚悟で生き残ってするべきことがあるはずなんです!生きましょう。生き残ることで誹りを受けるというのなら、私も一緒にその誹りを受けます」

 薫からこんなにも強く思いをぶつけられたことなど一度もなかった。涙で潤んだ薫の瞳の中に『絶望』の文字は存在してはいない。この状況下であっても薫は前を向いていた。
「……わかった。一緒に脱出しよう」
断腸の思いで発した日向のその言葉に、薫は深く頭を下げた。

「ここにロープがある。これは艦と共に最期を迎えるために用意してあったものだ」
引き出しの奥から出された純白のロープが薫の前に差し出される。
「本来ならばこのロープで自分の身体と艦を縛り、離れないように沈むはずだった」

爆音と共に艦は更に傾きを大きくした。
「一緒に……どんなに深い所でも、サメの腹の中でもお供致します」
「このロープの先を艦ではなく、お前に繋ぐなんて艦長失格だな」
「艦長として失格でも、私にとっては最高の人です」
「さぁ、来るんだ。このままでは艦の沈没に巻き込まれてしまう」
日向は薫の手を取り、艦首へ向かって走りだした。

 血塗れの同胞たちの屍を踏み越えながら、手だけは固く繋ぎ離さないようにふたりは走る。艦を脱出できたとしても、生き残れる可能性など皆無なのはわかってはいる。しかし、好きになってしまったこの手の人を、むざむざと死なせたりはできない。
あと一息で艦が沈むと爆撃機は更に容赦なく攻撃を仕掛けてくる。やがて艦は艦首を上に向け始める。息絶えた兵士たちが艦尾方向へこぼれるように転がり落ちる。薫が傾きに足を取られそうになった時、
「ここへ入るんだっ!」
日向が体当たりで近くにあった部屋の扉を開け薫と共に飛び込んだ。本来床だった部分が壁となって目前に迫る。
「本当にいいのか?」
日向が問いかける。頷く薫の左腕を取るとロープで縛り始める。海軍なら誰もが知っている絶対に解けない結びを造りきつく締める。傍にあった廃材同様になってしまったものを見つけると、ロープでそれを薫の身体に括り付ける。
「これなら浮くだろうし、敵もゴミだと思うだろう。いや、そう思うように祈ろう」
残ったロープの端で薫が日向の左腕を縛る。ふたりは純白のロープで結ばれた。悲しくなんてない。ロープの先に日向がいるのだから。
ふたりで椅子を手にして小窓を叩き割る。
「この先、如何なることがあろうとも、君とともにあらんことを……」
薫を抱き寄せ誓いを立てるかのように耳元で囁くと、日向は薫を抱いたまま海へと飛び込んだ。


 生きていることを悟られぬように、ふたりは波間に漂うゴミのように彷徨う。艦が半分近く沈んでいる。沈む勢いで渦巻いた海流に飲まれそうになるが、目立たぬようにそれでも必死にもがき続けた。海が夕日に染まるころ艦首は完全に沈み周囲には遺体やゴミとかした艦の備品が至る所に浮き漂っていた。
「もう少しで日が暮れる。生存者の確認をしているあの敵機を欺けさえできれば……」

 その時だった。上空を旋回していた戦闘機の一機が、浮遊物へと憎しみを込めた射撃をしてきた。遥か彼方から海へと無数の弾が撃ち込まれる。その道筋は日向と薫の方へと確実に向かって来ていた。咄嗟に日向は艦からの漂流物を背に被るようにして、その状態で薫に覆いかぶさった。動きを止めて息を殺す。薫は左肩と右足に痛みと同時に強い熱を感じた。今、騒げば確実に的になる。薫は血が滲むほどに唇を噛みしめ機銃の嵐が去るのを待った。水平線に陽が沈む頃、敵戦闘機は一斉に引き上げた。あたりは波の音だけになった。

「怪我は……ないか?」
自分を覆う日向の声が聴こえてきた。
「左肩と右足に一発ずつ喰らいましたが、大きな出血はしてはいないから大丈夫です」
薫は安堵の息を吐きながら言った。自分を覆う隙間から鮮やかなほどの朱に染まった空と海が見える。
「こんな時でも夕日って綺麗なんですね」
笑いかけた時、薫は気付いた。自分の視界の朱色が夕日の色だけではなかったことを。
「日向艦長!?」
慌ててうつ伏せになった日向を仰向けにする。自分たちを囲む海や純白の軍服が朱色に染まっていたのは、夕日ではなく日向の身体から出ている夥しい血だった。
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