海蛍 33

文字数 1,471文字

 食料を調達してくると家を出るアランを見送った薫は、部屋の大掃除を始めた。
一つ一つの窓を開け放ち溜まった埃を青空広がる外へはき出す。
雨漏りをしている屋根や、傷んでしまった窓枠の修理など、ここに住むと決めたからにはどれも早急に行わなければならないことが山積みしている。

 無医村化してしまったこの町で、一刻も早く診療所を再開させたいというアランの思い。薫が診療所で働くことが、この町の住人に薫の存在を認めてもらう一番確実な方法であるとアランは確信していた。薫もまた、医学の道を志すには身体一つで小作人の息子として日本に戻るのではなく、戦勝国であるアメリカでアランの力を借りなければそのスタートにも立てないと、何があってもアランに付き従う覚悟はしていた。しかし、戦争はあまりにも人々の心を救いのない奈落の底まで落としていた。買い物に出たはずのアランは何も手にせず帰宅したのだ。

「薬が何もなかったことを今更、思い出してな。これから金はいくらあっても足りないって気づいて買い物は中止したよ。軍から支給された缶詰もまだあるし、しばらくはこれで食い繋ごうかと思うんだが……そう、物置に野菜の種があったはずだ。時間は掛かるが自家菜園で新鮮な野菜ってのも悪くはないだろう?」
笑顔を絶やさずアランは、空のままの買い出し用リュックサックをテーブルに放るように投げ置くと物置へと向かう。暗い物置でランプの灯りを頼りに探し物をするアランの背に、薫は躊躇いがちに声を掛けた。
「私がいるから……だから、必要なものは何一つ、売っても分けても貰えなかったんでしょう?アランひとりなら泊めてもらえる家も、笑顔で食べられる温かなスープも用意されるけれど、私がいるから……私がいるから、誰もがあなたに一片のパンも差し出さない、そうなんでしょう!?」
薫の言葉を聞きながらも、アランはガサゴソと探し物を続ける。そして、埃にまみれながら鍬や野菜の種を手に振り返り笑った。
「アラン!」
こんな時にでさえ笑みを浮かべるアランにいら立つ薫は思わず声を荒げた。
「カオルもこんなことぐらい、想定していた範疇だろ?」
手に抱えた農工具や種をテーブルの上に置くと、アランは目を細めそれらを丁寧に吟味する。
「私は想定内でも、あなたはそんなことをされるべきではないはずです!」
多少の手直しで道具が使えると分かるとアランはホッと溜息をつく。そして、興奮して肩で息をする薫に視線を移す。
「キャプテン・ヒュウガがどうしてカオルが生き残ることに拘ったと思う?一緒に死ぬ方が互いに良かったはずだろうに。聡明なヒュウガならば、カオルが生き残ればどんな苦難があるかぐらい想定できていたと思わないか?自分が盾となって護れないのなら、カオルと共に自決した方が心も救われたんじゃないのか?」
日向の名を出され薫は瞬時に押し黙る。
「食べ物を売って貰えないくらい、キャプテン・ヒュウガの心と腕の肉を削ぎ落とした痛みを思えばどうってことはないだろう。こんなことで音を上げていてはキャプテン・ヒュウガに申し訳ない、そう思わないか、カオル?」
それでもまだ、何かを言おうとする薫の言葉を遮るようにアランは言葉を続ける。
「必要なものは明日にでも隣町に行けばどうにかなるさ。ただ、カオルには医学よりも先に農業を教えることになってしまうがいいかい?」
どこまでも前向きなアランの姿が、頑なだった薫の心に変化をもたらし始める。
「アランにその気があれば、大工仕事も教えて欲しいです」
薫の言葉にアランは微笑んだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み