海蛍 5

文字数 1,703文字

悲しみを押し殺しながら兵舎へ戻った薫を待ち構えていたのは、自分よりも身分の上の若い兵士たちだった。鍛えられた軍人集団の中で、薫の美しい容姿は常に目立つ存在でもあり、明日をも知れない自らの命に対する苛立ちの矛先を、この先輩兵たちは絶えず薫へぶつけていた。
「時間が出来れば外へ出ていくけどお前、女でもいるのか?」
「自分にそのような存在の者はおりません」
「女じゃなくて、お前が女の側として売りに出ていたとか?」
上官と言う名の下衆な男たちが声を立てて笑いだす。姉を失った直後の薫に容赦ない罵声を浴びせいたぶる。しかし、ここで反論しても反感を買い暴力は増すだけである。腹は立つが薫はじっと堪えて上官たちが飽きて去るのを待つ。
「ヨーチン野郎は、お気楽でいいよなぁ。俺たちが前線で命懸けで戦っていても、お前はヨーチン持って右往左往してりゃ、それで任務遂行なんだからよ」
当時、衛生兵は医療に関わる任務を遂行していた。戦闘での負傷兵への応急医療だけでなく、後方での傷病兵の看護及び治療、部隊の衛生状態の維持も担当する。しかし、現実に薫ら衛生兵には医療行為である診断・治療は認められず、戦局が厳しくなるにつれて使用できる薬剤も限られヨードチンキを手に走り回ることしか、許されなくなっていた。そんな衛生兵も、一度でも最前線に出て負傷した兵は『衛生兵殿』と敬意を込めて呼んだ。それは戦地において兵士は勝手に後退することが許されず、また、負傷した戦友を置いて前進することもあったので、戦闘中に負傷した兵士は衛生兵が来ることにより、まさに紙一重で助かる可能性があったのだ。戦場で敵弾に倒れた仲間兵士を弾の飛び交う中、衛生兵は自らの命を懸けて負傷兵を後退させることも役割の一つとして担っていた。しかし、まだ戦場を知らない若い先輩兵士たちは、自分たちと同じ待遇を受けながら、ヨーチンを手に動き回る薫の姿が許せずにいた。人目を避けるように、些細なことで薫に難癖をつけ暴行を行い、鬱憤を晴らしていたのだ。医師を目指していた薫もまた、ヨーチンを携え動き回るしか出来ない己の姿を恥じるほどに情けなく思っていた。
『いつか…いつか戦争が終わったら、絶対に俺は医者になるんだ』
薫を支えていたのは、この思いだけだった。
痛みが次第に感じなくなって来た気がする。上官の罵声も鉄拳の痛みも意識も、全てが遠くなっていく。姉が死んだ今、もう生きることに意味も見いだせなくなりつつあった。
『姉ちゃん、迎えに来てくれよ。一緒に行こう……』
薄れる意識の中、薫は姉に問いかけた。と、その時だった。
「お前たち、一体、何をしているんだ!?」
偶然通りがかった者の低く底冷えのする一声が、すべてを止めた。
「この橋本衛生兵に帝国海軍軍人にあるまじき府抜けた言動があり、先輩である我々が帝国軍人としての心構えを再教育をしていたのでありますっ!!」
先輩の焦り具合と声の調子で、相手となっている者がかなりの身分であることがわかる。
「お前たちは戦いに出たことがあるのか?」
「いえ、自分たちはまだであります。しかし、いつでも命令が下れば、お国のためにこの命を捧げる覚悟は出来て…」
相手はその言葉を遮った。
「一度でも戦場に出て地獄を見た者は、衛生兵に尊敬の念を抱くものだ。戦場では衛生兵はある意味、一般兵士より過酷な任務を背負うからな。その衛生兵を愚弄するのは、まだ本当の戦場も知らない青二才だ。いいか、兵士は皆、この国を護るために働く大切な存在だ。貴様ら如きがこの様な制裁を加えることは決して許されない。今日は見逃す。しかし、二度目は規律を守るために正当な理由の元、お前たちに懲罰を与える。さぁ、行け。お前らを見ているだけで私は非常に不愉快だ!」
怒鳴り声と共に、慌てふためき駆け足で去る足音が次第に遠くなる。
「大丈夫か?」
薫は抱き起こされ顔の泥を手で拭われたが、痛みで思わず顔を顰めた。腫れあがった瞼の僅かな隙間から一瞬、見えたのは純白の軍服。自分がこれ以上、不本意な暴力を受けなくて済んだことを理解した薫は安堵すると同時に意識を完全に手放した。
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