海蛍 46

文字数 3,486文字

 逸る気持ちを抑えさようと、アランは薫にコーヒーを淹れるように言った。
見えないであろう場所で薫は深呼吸をし、トレーにコーヒーを乗せ運んできたが、緊張から震える手はカップをカタカタと音立せて、コーヒーに波紋を描き続ける。
どうにかコーヒーを配り終え席に着いた薫を見届けると、アランは真木を見ながら言った。
「英語での会話は大丈夫ですか?」
「えぇ、何とかなりそうです。しかし、これからお話することは正確に橋本氏に伝えなければならないので、互いの母国語である日本語でさせて頂きます。どうかご容赦を……」
アランは静かに頷いた。

「橋本さん……私は旧東京帝国大学で日向と同期だった真木と申します。
日向とは進む道を分かちましたが、高校以来の親友でもありました。
奴は目先のできごとではなく、いつでも日本や世界の行く末を案じて憂いていました。互いにこの戦争が長く続かないこともわかっていました。
私はその時が来たら弁護士になりたいと、身内の伝手を使って徴兵を免れ大学に残り、助手として過ごしていました。命惜しさにと蔑まれても構いません」

笹本はそう言うと遠い目しながら、ふっと息を吐いた。
その遠い視線の先には若き日向が見えていたのだろうか。

「奴は代々名家と呼ばれる家柄でもあり、家業でもある医者を目指せば、医官としての道も開けていたはずなのに、海が好きだからという理由で躊躇うことなく海軍将校への道を歩みました」
自分の知らない日向の話に心が踊る。薫は黙ったまま真木の話に耳を傾け続ける。
「奴に……日向に内々に出撃命令が出た翌日、私を訪ねて来ました。そして、そこで奴の口から部下であるあなたを自分の養子として、法的に則り正式に縁組したい旨の相談を受けたのです」
「養子?私が日向艦長の……ですか?」
初めて聴くその話に、薫は驚きその文言を真木に聴き返した。
「日向から何も聴いてはいないのですね?」
真木の問いに薫は深く頷いた。
「やはりそうでしたか。いえ、その時は、それが可能なのかとの相談だったのですが、法的手段をしっかりと行えば問題はないと告げると、その日は帰っていきました。
それから幾日かして奴は再び私の元へ現れました。
自分の浅はかな一存で、あなたの未来を奪ってはならないと言って決断を保留し続けていた日向があなたの気持ちを確かめて決心をしたと、改めて養子縁組の手続きを始めて欲しいと正式に私に依頼してきたんです。確かそれは……」
真木の言う薫の気持ちを確かめたというのは、一緒に温泉宿へ出向いた時のことを指していた。
「橋本さんが日向と共にあの艦に乗るとは、私も日向も考えてはいませんでした。
むしろ日向はあなたを、如何なる手段を講じようとも出撃艦には載せないと決めていた。日向はあくまであなたが生き残ることを前提に、この話を進めていたのですから。終戦を迎えすぐに私はあなたを探しました。しかし、日向の艦の乗艦名簿にあなたの名を見つけた時、私は思わず日向に悪態をつきながら天を仰ぎました」

自分が日向に思いを馳せている時、日向は自分とのことを一時の感情だけではなく、もっと広く深く物事を考えていたことを初めて知った。

「養子って……一体、養子って何なんですか?
いえ、それよりなにより、日向艦長は生きておられるんですよね?
日本で元気に暮らしておいでなんでしょう?教えてください、真木さんっ!!」
思わず身を乗り出し詰め寄る薫を、アランは制した。
「日向総一郎は南洋沖で終戦前日に確かに戦死していました……
たぶん、最後に日向と会い、話をした存命者は橋本さん、あなただけでしょう」


 あの絶望的状況下で生きている自体、あり得ないことを薫は痛いほどにわかってはいた。しかし、そんな中で自分はアランに助けられ今、こうして生きている。
予想しなかった真木の登場に、もしかしたら日向もまたどこかで生きているのではと薫は大いに期待をしていた。しかし、真木は薫の心の中の僅かな希望の灯を一瞬で消し去った。親指をグッと握りしめながら、薫は身体を震わせ嗚咽を漏らす。
「あぁ、カオル……私は何と言っていいんだろうか」
薫のあまりの傷心した姿に、アランは言葉に薫に声を掛けるが、薫は満足な返事も出来なかった。


「日向のものと共にあなたの戦死公報を確認しました。
日向からの依頼……私の一番最初の弁護士としての仕事は日向からの依頼だと思っていただけに無念でした。日向が戦死したと分かれば、それに対する諸手続きがあります。私は着手し始めていました。
けれども同じ頃、私はアメリカから来た将校から噂話として、日向の艦に生き残った日本兵がいて、アメリカ本土に渡ったと耳にしました。まさかと思いながらも私は、祈りながらその生き残った日本兵のことを調べ始めました。そしてあなたがここで生きておられることの確証を、正式に得たんです」
しかし、薫は何も言おうとはしなかった。人形のように感情を失い呆然としたままだった。日向が死んだ事実を今更に付きつけられ、二度に渡って心を殺されたに等しい。
薫の心は二度死んだのだ。

「あなたが日向と共に出撃した日、日向が進めていたあなたとの養子縁組が法的に認められ完了しました。あなたは今、『橋本薫』ではなく『日向薫』として日本で戸籍が用意されています」
「ひゅうが……か、おる……?」

『この世で最も尊く愛しい人に今、永遠を誓う……』

波に漂いながら日向の言った言葉が蘇る。
日向はその場限りの言葉などくれたりはしていなかった。
最期を迎えるあの瞬間まで、日向は誠実に薫と向き合ってくれていたのだ。

「日向は祖父母の代から受け継いだすべての資産を、あなたに相続させたかったんです。調べましたが確かに日向亡き後、養子縁組されたあなた以外、法的にも日向家の遺産を相続できるであろう人間は皆無でした。あなたには、それらを合法的に受け取る権利があります」
日向との話で、相当な資産があるとは何となく気づいてはいたが、金に縁も執着もない自分には、そんな他人の財布の話など興味もなく聞き流していた。たぶん、それは薫には想像も出来ない恐ろしいほどの金額なのであろう。しかし、そんなものには興味などない。今は涙しか出てこない。
「金も身分も何もいらなかった。ただ、あの人が生きてくれさえしたら、私は他に何も望んだりはしませんでした……」

「あなたはなぜ、日向がそこまであなたとの養子縁組に拘ったのかがわかりますか?」
真木の問いに薫は力なく首を横に振った。
「あなたは医師になることが夢だったそうですね」
諦めたばかりの夢。心の傷を、何も知らない真木は容赦なく素手で触れる。
「夢ですよ、夢。何も怖いものなど知らない子どもが抱く、身の程を弁えない他愛もない夢です」
「あなたは旧大日本帝国海軍における遺族権利をご存知ですか?」
初めて耳にするその言葉に、薫は再び首を振った。
「旧大日本帝国海軍には残された家族……戦死者遺族に対しての恩恵が規定されていて、それは今も生きているんです」
「恩恵……ですか」
「海軍軍人の遺族は医学校への入学及び学費免除の恩典が与えられるます。
わが国の医学校……今の国立医科大学への優先的入学及び学費免除の権利が、日向の遺族として残されたあなたに受ける権利が生まれたんです。日向は自分が出撃する時点で、その権利を何とかあなたに残したいと最後の最後まで奔走し続けていたんです。今のあなたは『日向薫』であり、日向総一郎の唯一の遺族として日向の思いのすべてを受けることができるんです」


 当時の帝国海軍では、軍人が戦死した後、遺族となった家族が路頭に迷わぬようにと、この様な制度が確かに存在していた。家族を残し死出の旅に向うことは無念極まりないが、残された家族がそうして厚遇されるのならと、兵士たちはそれを心の糧として出撃して行ったのだ。

『そろそろ、答えをくれないか、薫。いつか私に娶らせてくれることを……』
『はい。何度生まれ変わっても、必ず私はあなたと共に生きることを誓います』

波間でのふたりの永遠の誓い。その場限りの見せかけの契りではなかった。
日向とはあの時点で身も心も全てがしっかりと結ばれていたのだ。
なぜ、日向があそこまで自分を生かそうとしたのかを、薫はやっと知った。
「日向艦長!日向艦長っ!!うわぁぁぁっ!!」
日向の思いの深さを知った薫は、その場に泣き崩れた。
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