海蛍 42

文字数 2,591文字

「私はあれから丸三日も寝ていたんですか!?」
「あぁ。私がセイラムから戻った時、カオルは二階で深く深く眠っていた。
倒れたカオルをニールたちが部屋へ運んで寝かせたそうだ。カオルに必要なのは睡眠と休養だと言ってな。クロエの意識が戻った日の夕方に私は戻ったんだ」
久々に静まり返った診療所でふたりはコーヒーを飲みながら、アランがセイラムへたってからの話をしていた。
「町の者たちの態度を見ていたら、何をしてもカオルへの悪い刺激になると思ってあえて音信不通にしていたんだ。電話をするにも誰かを通さないとならなかったしな。しかし、まさかクロエにあんなことが起きていたなんて」
今更ながら、アランは大きなため息を一つ吐いた。
「で、クロエへの処置なのだが……」
「教えてください。私はどうすれば良かったのでしょうか!?」
コーヒーカップを手荒く置いて、真剣な眼差しで自分を見つめる薫の姿にアランは微笑んだ。
「カルテを読んだ。あの状況での対応、私は満点を出すな。しかし……」
「……はい」
「牧師には謝ったのか?仕事を無くして済まなかったって」
アランの軽口に、薫も思わず笑みをこぼした。
「もしも私だったらと思うと正直、ゾッとしたよ。
クロエを助けるために歯を何本もへし折るなんて、治療の名の下でとは言え果たして自分はそこまで冷静に非情になれただろうかってな。実は私はクロエの本当の……」
「その件は、ジョージから聴きました」
薫の言葉にアランは目を丸くした。
「その話をジョージの口から聴いたって言うのか!?」
「はい。クロエの治療中に聴きました」
「おいおい、なんてこった」
アランは今度は躊躇わず大声で笑った。


「町の者はみんな知っていることだが、誰もが口にすることもなくなった話だった。
ジョージは心からヘレンとクロエを愛している。あの三人は間違いなく家族になった。
けれども、ジョージの心の奥底には良くも悪くも、私の弟であるライナスの存在が消えぬままある」
ライナスの名を口にしたアランの表情は、どこかさみしげに見えた。
「色々とありましたが、今は全てのできごとが絆を強くするための添え木になってくれたと私は思います」
嬉しそうに語る薫の笑顔が、ジョージには切なかった。
「カオル、背中に大きな火傷を負ったそうだね」
ジョージの言葉に薫の表情が引き攣った。
「あ、あの、オレ、掃除をしている時にバケツに躓いて転んでそれで……」
「ジョージたちがカオルに取り返しのつかないことをしてしまったと、私にも謝罪してきたよ」
薫の嘘をアランの言葉が消し去る。

徐に立ち上がると、アランは薫の背に回ってシャツを捲った。
「っ……」
焼け爛れた傷が膿み始めている。
僅かにあった薬もクロエと足を撃ち抜かれたジョージに回し、自分の治療は全て後回しにしたことを傷は雄弁に語っていた。
「セイラムからいい薬をたくさん持ってきたんだ。しかし、このご時世で臨床がまだ……な。さぁ、町のみんなのために被験者になってくれるだろう?カオル」
アランらしい物言いに薫は黙って頷いた。


傷は深く治療を受ける薫だけではなく、治療をする側のアランもまた、額に汗をにじませていた。
「カオル、私が君をここへ連れてきたことは、本当に正しかったのだろうか」
背に触れていたアランの手が止まる。
「こんなに惨い傷を残してしまって。
自分の命と引き換えにしてでもカオルの命を護ろうとしたキャプテン・ヒュウガに私は申し訳なく思う」
薫の背でアランは声を殺して泣いていた。
「日向艦長の命令はただひとつ『生き抜け』でした。あのまま海に漂っていれば、私は命を失ったでしょう。もしも、何らかの形で命が助かって日本に戻ったとしても、心は死んでいたと思います。ここに来て、確かに色々ありました。でも、乗り越えて今、私は自分の心と体の居場所をやっと与えられたと思っています。アランにとっては酷い傷も、私に取ってはこの町で暮らすために得られた勲章だと思ってます」
「カオルは強いんだな」
「本当の強さとは何かを私に教えて下ったのは、日向艦長です」
自分が生きている限り、日向は死ぬことはないのだと薫はこの時、気付いた。



「さぁ、今夜はアランの帰還とクロエの快癒。
そして、町に新しい仲間であるドクターハシモトを迎えたお祝いだ。
ドクターハシモトは日本人だが、戦争も終わり心は今、誰よりもこの町の私たちに寄り添ってくれている。アメリカ大統領だって、この町のことを彼ほど深くは思ってなんていやしないぞ。すべての……すべての蟠りをここで飲み干し、明日への糧にしようじゃないか。乾杯っ!!」
ジョージの言葉に診療所前の通りを封鎖して造られた特設会場に集まった町民がワッと湧きかえる。笑顔で夜空にグラスが掲げられた。
誰かが奏でる少しピッチの狂ったヴァイオリンの音に合わせ、老若男女が笑顔で踊る。裕福ではない田舎町。日頃、何の娯楽もないからなのだろうか。
誰もが今まで見たことのない嬉しそうな表情ではしゃぐ。
薫の元へも町の者たちが途切れることなく、ご機嫌でやって来る。


ふと、ここへ来た夜、自分が日本人だと知った者たちが、殺気を滾らせながらにじり寄ってきたことを思いだす。傷ついた者が、それを癒し再び立ち上がり歩きだすことが、どれだけ大変なことなのかを、ここのみんなは知っている。自分もまた、日向の命を松明に変え手にして、明日に向って歩んでいるのだ。心の中で日向に感謝する。あなたの救ってくださった命は今、国境を超えて敵国だった者たちと語りあい、明日を作ろうとしていますと。



「おーい、みんな。ちょっと聴いて欲しいんだ!!」
少し離れた場所で飲んでいたアランが、大きな声を出して皆を制した。
歓声は次第に静まりヴァイオリンもキュと弦の音を立てて止まった。
「いい気分で盛り上がっている最中に申し訳ないな。
みんなが揃っているからちょうどいいと思ったんだ、許してくれよな。カオル、ここへ」
アランに呼ばれ、薫はすぐさまアランの元へ行く。呼ばれた意味が分からずアランの横へ立ちアランを仰ぎ見る。
「実は……私はここにいるカオルを州立医科大学に通わせたいと考えているんだ。
カオルを名実ともに医師にしようと真剣に考えている」
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