29
文字数 1,512文字
リリカからの連絡は、突然だった。数日が過ぎていた。わたしは、忘れていた。
「‥‥近くまで、来ています。これから、お邪魔しても宜しいでしょうか。」
リリカの躊躇いがちな気怠い会話に溜息を隠して歓迎した。窓のカーテンの隙間から覗くと、リリカが車道に停めた車から扉を開けてもらい降りるところだった。
純白い衣服のリリカは、青白い相貌と相まって幽霊のような希薄で痛々しさがあった。手にした深紅の花束が際立ちわたしを困惑させた。それでも、笑顔で礼を述べた。
「今の時期でも、この花はあるのね。」
温室栽培の高価な品種だった。その季節では、どこの花屋でも扱える品物でなかった。
「とても素敵な色ね。それに、匂いも。」
花の匂いが、恥じらうリリカと似ているのに気付かされた。
「‥‥嬉しいです。わたくしには、思い出の大切な花なのです。」
リリカの言葉を聞きながら、わたしは花を貰ったのがいつ以来だったか記憶を紐解いていた。わたしの好みを知っている男は、季節外れの高価な花を使わなかった。
花瓶を捜す間、椅子を勧めた。質素に最低限の物しか置かない考えが新鮮だったのか。リリカは、感心したように殺風景な部屋を眺めた。
「何も置いていないでしょう。お嬢様には、無理かしら。」
わたしは、瓶に花を生けながら意地悪く尋ねた。
「‥‥素敵です。わたくしの想像していたとおりでした。」
リリカの瞳は、輝き潤んでいた。
「‥‥絵を見せて頂いても宜しいでしょうか。」
壁に掛けた唯一の風景画に目を留めたリリカは、断ってから近付いた。その鑑賞の仕方は、今まで会った誰とも違っていた。少し後になって、リリカが大学で美術史を専攻して学芸員の資格を修得しているのを知った。
「‥‥たぶん、同じ作家の作品をドナ様のお屋敷で拝見したことがあります。」
リリカが口にした名前は、わたしを仰天させるほどの衝撃を受けた。
『ここで、ドナが出てきてどうするのよ。』
気持ちの動転を悟られないようにわたしは、落胆と仄かな期待とを交差させながら胸の中に思いを抑えつけた。あの画家の作品をドナが所有していても不思議でなかった。むしろ当然のように思えた。ドナは、あの早世の歌姫ルーミナイの肖像画を託す以前から、画家が描く海辺の風景画を大切にしていたのだろう。風景画を手に入れた経緯は見当がついた。目が見えなくなってもドナは、あの小さな絵を手放さずに自分の寝室に掛けていたのを後に知った。
わたしは、聞こえなかったふりをしてお茶の用意を急いだ。
「‥‥あぁ、とても好い作品です。」
リリカは、絵に魅入られてていた。
ドナから一方的に送り届けられた絵だとは、言えなかった。ドナが学校に戻らず海辺の滞在を選んだ少し後だった。夜遅く届いた小包を開けて冬に向かう浜辺を描いた寂しい風景画を目にして、わたしは深い溜息をついたのだ。あの頃、若いドナの気持ちを慮れば送り返せるものでなかった。
「‥‥この作品は、在郷の作家です。中央に名前は知られていませんが、技術がしっかりしている上に個性も際立っています。‥‥なによりも、思惟的な理屈っぽさが秀逸だと見ます。」
リリカの多弁さに驚きながら、彼女の資質を垣間見たように思えた。
「そうなの。わたしは、絵も良く判らないから。昔の知り合いが置いていってくれたの。」
わたしは、興味がない素振りを最後まで通した。リリカが独り言ちた。
「‥‥これを選んだ御方は、優しくて寂しがり屋でしょうか。」
若い娘の率直な感想が、わたしのように時代を過ごした立場には眩しかった。その称賛をドナに聴かせられなかった。リリカとドナとの関係を詮索したくなったが思い留まった。
「‥‥近くまで、来ています。これから、お邪魔しても宜しいでしょうか。」
リリカの躊躇いがちな気怠い会話に溜息を隠して歓迎した。窓のカーテンの隙間から覗くと、リリカが車道に停めた車から扉を開けてもらい降りるところだった。
純白い衣服のリリカは、青白い相貌と相まって幽霊のような希薄で痛々しさがあった。手にした深紅の花束が際立ちわたしを困惑させた。それでも、笑顔で礼を述べた。
「今の時期でも、この花はあるのね。」
温室栽培の高価な品種だった。その季節では、どこの花屋でも扱える品物でなかった。
「とても素敵な色ね。それに、匂いも。」
花の匂いが、恥じらうリリカと似ているのに気付かされた。
「‥‥嬉しいです。わたくしには、思い出の大切な花なのです。」
リリカの言葉を聞きながら、わたしは花を貰ったのがいつ以来だったか記憶を紐解いていた。わたしの好みを知っている男は、季節外れの高価な花を使わなかった。
花瓶を捜す間、椅子を勧めた。質素に最低限の物しか置かない考えが新鮮だったのか。リリカは、感心したように殺風景な部屋を眺めた。
「何も置いていないでしょう。お嬢様には、無理かしら。」
わたしは、瓶に花を生けながら意地悪く尋ねた。
「‥‥素敵です。わたくしの想像していたとおりでした。」
リリカの瞳は、輝き潤んでいた。
「‥‥絵を見せて頂いても宜しいでしょうか。」
壁に掛けた唯一の風景画に目を留めたリリカは、断ってから近付いた。その鑑賞の仕方は、今まで会った誰とも違っていた。少し後になって、リリカが大学で美術史を専攻して学芸員の資格を修得しているのを知った。
「‥‥たぶん、同じ作家の作品をドナ様のお屋敷で拝見したことがあります。」
リリカが口にした名前は、わたしを仰天させるほどの衝撃を受けた。
『ここで、ドナが出てきてどうするのよ。』
気持ちの動転を悟られないようにわたしは、落胆と仄かな期待とを交差させながら胸の中に思いを抑えつけた。あの画家の作品をドナが所有していても不思議でなかった。むしろ当然のように思えた。ドナは、あの早世の歌姫ルーミナイの肖像画を託す以前から、画家が描く海辺の風景画を大切にしていたのだろう。風景画を手に入れた経緯は見当がついた。目が見えなくなってもドナは、あの小さな絵を手放さずに自分の寝室に掛けていたのを後に知った。
わたしは、聞こえなかったふりをしてお茶の用意を急いだ。
「‥‥あぁ、とても好い作品です。」
リリカは、絵に魅入られてていた。
ドナから一方的に送り届けられた絵だとは、言えなかった。ドナが学校に戻らず海辺の滞在を選んだ少し後だった。夜遅く届いた小包を開けて冬に向かう浜辺を描いた寂しい風景画を目にして、わたしは深い溜息をついたのだ。あの頃、若いドナの気持ちを慮れば送り返せるものでなかった。
「‥‥この作品は、在郷の作家です。中央に名前は知られていませんが、技術がしっかりしている上に個性も際立っています。‥‥なによりも、思惟的な理屈っぽさが秀逸だと見ます。」
リリカの多弁さに驚きながら、彼女の資質を垣間見たように思えた。
「そうなの。わたしは、絵も良く判らないから。昔の知り合いが置いていってくれたの。」
わたしは、興味がない素振りを最後まで通した。リリカが独り言ちた。
「‥‥これを選んだ御方は、優しくて寂しがり屋でしょうか。」
若い娘の率直な感想が、わたしのように時代を過ごした立場には眩しかった。その称賛をドナに聴かせられなかった。リリカとドナとの関係を詮索したくなったが思い留まった。