めぐり逢う季節に 【田園の雨】

文字数 1,965文字

 川沿いのホテルに立ち寄り荷物を置いてタクシーで出かけた。霧雨が降り続く港町を離れて丘陵の麓にさしかかる頃には夜も明けていた。木々の生い茂る林道に行き交う車はなかった。無口な若い運転手は、車を適度な速度で走らせ続けた。三叉路で車を停めて運転手が言葉短く尋ねた。少しばかり時間は余分に掛かるが海沿いの道を通るかと。海辺では珍しい北国の方言だった。その道を使えば古城に行けるのか確かめる私を運転手は、ルームミラー越しに興味深げな視線を向けて尋ね返した。
 「古城へ向かうには、岬から降りないと無理です。……先に行かれますか。」
 少し後になって運転手の視線と言葉が持つ意味が分かり深く考えさせられた。最初の勧告に気付かなければ重い結果を招き受け入れなければならないと、私は理解していたつもりだったが思い至らなかった。
 丘陵の頂を越えると、視界が開け海の広がりが一望できた。海岸から吹き上がる海風の厳しさに息を呑んだ。澱んだ雨雲が海面に垂れる寒々とした海辺の景色を車窓から楽しむ余裕もなかった。霧雨に霞む古城が見える頃には、気持ちも滅入っていた。ルーミナイの撮影した海の写真が脳裏に蘇った。展示会場で感じた以上に海辺の強い存在感を目の前にして歌姫が捉えようとする景色の本質に驚かされたからだろうか。海辺を訪れ新たに芽生える興味に惹かれたとしても、物見遊山な気持ちは揺らいでいた。私は、迷いながら胸の内で問いかけた。
 『歌姫が撮る写真は、心象風景だと思い込んでいたからなのか……。』
 丘陵の海側は、所々が急斜面だった。丘陵の中腹を沿うように曲がり続く道をタクシーは速度を下げずに走り抜けた。

 海辺を離れ丘陵を幾つか越える田園に葡萄畑の広がる村があった。高台の集落を廻る狭い石畳の途中でタクシーから降りた。そぼ降る雨の集落に漂う静寂を受け入れながら鄙びた民家の裏手に回った。教えられた小径を踏み入ると石造りのアトリエに行き着いた。古い時代の礼拝所を改築した建物だった。管理人の常駐しない事情をリアナに教えられていたが、想い描く細やかな望みを懐いてもいたのだ。
 アトリエの所在と周りの様子を確かめるだけでも十分に画家の人となりが伺い知れた。世俗から隔絶した世界観が感じ取れた。理由はどうであれ隠遁する画家らしい居場所に思えたが、あの肖像画を描いた画家の終の棲家にしては、落ち着きすぎる印象を受けた。もう少し生々しい雰囲気を期待していたからなのか。戸惑いながら私は、歌姫ルーミナイの写真集の中に写り込む肖像画の一枚を確認したリアナが、困惑したように言葉を濁す姿を想い返した。
 ──おそらく……、この写真の中の絵は、わたしが未だに観ていない最初の肖像画でしょう。学生の頃に作家のアトリエで目にした二作目と少し違っています。……写真に見える回廊と似た場所は想像できますが、写真が撮られたを場所を今のわたしでは特定できかねます。
 リアナは、慎重に言葉を選び説明した。
 ──作家のアトリエ内部も、よく似た造りなのですが、アトリエに置かれていたのは二作目の肖像画でした。古城が失火した後、その肖像画は洗浄と修復の必要から作家の下に持ち込まれたそうです。その作品を初めて見たのがその頃です。それ程も損傷が酷くなかったのか理由は不明ですが、修復される様子もなくアトリエに長らく置かれていました。……わたしは、あのまま放置され続けるものと思えました。
 二枚目の肖像画は今もあのアトリエの何処かに収められているのかもしれないと、語るリアナの複雑な表情に私は考えさせられた。
 戸締りがされたアトリエの前で暫く佇んだ。軒下に使い古された椅子が残されていた。その椅子は、長い歳月を経て深い眠りについているような穏やかさが見えた。私は、衝動を抑えきれず腰掛けた。座り心地がよく落ち着けるのが解ると独り納得した。
 『海の傍にいるようなじゃないか。この場所から、海を想っていたのなら……、』
 高台から見渡せる雨に煙る葡萄畑が海原のように広がっていた。目を閉じて耳を澄ませてみると、田園に降り下りる柔らかな雨粒の音が小波に聞こえた。あの肖像画の背景に描かれている海が想い起こせるのに気付き胸の内で受け入れた。
 『肖像画の背景に海を選択したのは、意味があったのか……。』
 或る朝、散歩に出かけ行方不明となった画家は、どこかで生きながらえている考えが唐突に思い浮かんだ。あの場所に不可解な違和感を感じたからだろうか。
 『本物の海を見ていたかった……。』
 あの時、椅子に腰掛け思案を巡らす私の脳裏を過る海に恋い焦がれる画家と同じ思いに至る感覚が後々まで残り日々の狭間で蘇った。そのことで煩い立ち止まらなかったが、その都度大切な記憶の綻びに気付き言い表せない困惑を覚えて口元を引き締めた。
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