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文字数 1,019文字

 大きな寝具は、わたしに深い眠を齎せてくれた。昼近くになって起きると、既にエリザは出掛けた後だった。住み込みの年若いメイドは、良く躾けられていた。シャワーを浴びて身支度の整え食事の世話を受けた。
 最上階の特別室からは、港が一望できた。その部屋を訪れる度にエリザの気持ちを慮れても少し考えさせられた。余裕があってもわたしには、到底真似のさせない生き方ができる女だった。わたしとは、所詮生い立ちが違っていた。この齢になっても薄暗い階を見上げる先に区切られた狭い空が見える場所でしか落ち着けない性分は恥ずかしくなかった。むしろ、わたしはその記憶を自尊心の拠り所としていたのだ。
 ふと、年若いメイドの素性が気になった。わたしよりは、ましな生い立ちかもしれないと思えた。話し言葉は、矯正され所作もエリザ好みに優雅に躾けられていた。
 「‥‥わたしが、この海辺の町に初めて訪れたのは、十代の頃だった。」
 わたしの独り言のような呟きは、メイドを戸惑わせただろうか。茶器を用意する手を止めることをしなかった。
 「貴方の故郷は、ここから見えるの。」
 答えは期待していなかった。メイドは、手の仕事を休めてから慎み深く返事をした。
 「いいえ、マダム。ここからでは見えません。東の遠い山岳地帯ですから。」
 窓から眺望できる東の丘陵が連なる一つに、古い友人の故郷があった。若い頃に仲間たちと押しかけた思い出が懐かしく蘇った。そこから見えた遥か彼方に雪の頂を見せる山岳地帯は、話だけしか知らなかった。
 「そぅ。思い出させたなら、謝るわ。」
 わたしは、メイドの大らかに育った生い立ちに安心した。若い娘の素直な性格に安心したわたしは、エリザの人を選ぶ趣味の良さに感心しながら若い頃を想い返して心の中で非難した。
 『人を見る目は確かなのに、忠告してくれなかった‥‥、わたしを試していたの。』
 数日前の出来事が、わたしを昔の日々に引き戻していたのだろう。
 「彼奴が、狡かっただけよね‥‥。」
 午後は、エリザの部屋で寛いだ。久しく遠ざかっていた書き物をした。短い文章を重ねていくと、不意に辛く居た堪れない思いになった。目頭の涙を抑えて紙を破り捨てた。
 「‥‥告白文じゃあるまいし、今さら何よ。」
 わたしは、思わず独り呟いた。その後は、外の景色をぼんやりと眺めて過ごした。

 夕刻になってエリザから連絡が入った。帰りは、路面電車を使った。途中で雑貨屋に立ち寄り新しい石鹸を探した。
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