めぐり逢う季節に 【岬の食堂】

文字数 1,913文字

 小さな雑貨屋の軒下で女児の遊びに付き合っていた運転手は、私の戻る姿を目にすると車のノブに手をかけて尋ねた。
 「この雨は、暫く止みません。食事をどうしますか。」
 ここから離れたい気分だった。海の見える場所が懐かしくなっていた。丘陵を幾つか越えただけなのに海の景色を思い起こさせる土地であるのに納得した。

 若い運転手は、心得ていた。岬の食堂に車を乗り着けた。海岸線を廻る旧道沿いの一軒家だった。古色蒼然な店内は、手入れが行き届き居心地がよかった。地元の常連客が使う店の雰囲気が旅人にも優しく感じた。初老の店主がカウンター越しに柔らかい物腰で迎えてくれた。客に混じり窓際の席に着くと、手伝いの若い娘が注文を聞きに来た。私が喋る言葉の抑揚に一瞬だけ軽く驚いた娘は、自分と同じ出身であるのに気付いたのか親近感を持ったようだった。
 窓からは、静かな雨に煙る古城の海辺全体が見渡せた。岬と丘陵に囲われる干潟が海の続きのように広がっていた。波打ち際の小島に建つ古城は、海と陸との狭間で不安定な位置だった。それが古城を孤高な姿にしていたのだろう。独り毅然と立つ旅人の趣きがあった。
 地元の食材を使う料理は、素朴ながら味わい深かった。世辞でなく素直な気持ちのままに褒めると、店主が優しく会釈を返し勧めた。
 「良い葡萄酒がありますが。」
 店主は、未開封の瓶を持って奥から戻った。海辺の近郊で収穫される葡萄を使って酒造される説明を始めた。
 「昨年の品も良く出来ています。葡萄を育てる本人は、味が毎年違うと話す頑固者です。……いかがでしょう。」
 私は、赤葡萄酒の奥深い香りと力強い味に感動した。育てた人物の作業に対する姿勢が窺い知れた。
 「この場所を再訪したくなる理由になります。」
 「作り手の励みになるでしょう。」
 店主は、和やかな笑みを返した。土地の気候や風土の話しを聞きながら私は、画家のアトリエのから望める葡萄畑を想い重ねた。
 若い娘に入れ替わり奥から妙齢の女性が現れた。店主の妻が私と同世代であるのに驚かなかった。運転手の食事を頼むと、彼女は窓越しに車を確かめた。若者の好みを知っているようすに気付き提案した。
 「店に誘った方がいいかな。」
 「仕事中は車を離れないでしょう。大事なお客様を案内している時は、とくにね。」
 女性の言葉は、明快だった。手で持てる軽食と飲み物を車中の運転手に届けた。気さくなシーラは、自分から名乗った。
 「彼の車を使っているってことは、Mさんの知り合いなのですね。」
 「彼女は、有名人でしたか。」
 「この海辺で二番目に物知りな人ですよ。」
 シーラが明るく答えた。
 「見た目は若いけど、何百年も生き続けている噂があるの。」
 真実を含ませたような軽口が面白くて、思わず私は顔を綻ばせた。Mと実際に会い雰囲気を知る者からすれば、信じてしまいそうになる言葉だった。シーラが一呼吸おいてから尋ねた。
 「ご旅行ではなさそうですね。……何かをお探しですか。」
 シーラの直線的な性格に好感が持てからだろう。隠すことなくそれまでの経過を語った。
 「写真集の風景を実際に肌で感じてみたい思いからです。」
 「ルーミナイか……。」
 懐かしい名前を耳にしたかのようにシーラが、視線を遠くに泳がせた。言葉の端々に讃嘆する響きを読み取った私は、率直な感想を求めた。
 「好い娘よ。歌声が素晴らしいの。」
 シーラの瞳が称賛していた。舞台を観たことがあるのか聞かれた私は、映像を通してでしか知らないのを正直に伝えた。
 「十人が十人とも褒めるのを見てしまうと、天邪鬼な私は距離を置きたくなります。」
 私は、軽く冗談を含ませた。
 「ですが、彼女の写真が持つ不思議な魅力に惹かれてこの海辺まで来たのも事実です。」
 「お勧めするわ。」
 シーラが言葉熱く語った。
 「できれは、この町の舞台に立つ姿を見てほしい。」
 シーラは、主人に昨年の晩秋に海辺の舞台で歌った日を確かめた。
 「毎年、秋の終り頃ですか。はっきりとした日時は、間際にならないと分からないの。」
 「それなら、秋まで滞在しなければなりませんね。」
 私の言葉に他意はなかったが、シーラの表情は真剣だった。
 「ルーミナイの舞台に逢いたくて居座ってしまう人もいるのよ。ここには、ルーミナイを待ち焦がれる人がどれだけいるでしょうか。それは、素敵なことなの。」
 お互いが言葉を選ばなくても、シーラとは昔からの知人と接するように話せた。見知らぬ人が聞いたなら、同級生が昔を懐かしんで語り合っているように見えただろう。
 「そぅ……、とても素敵な人待ちなの。」
 シーラは、自分に言い聞かせるかのように二度繰り返した。
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