文字数 1,117文字

 注文を済ませるとロサンは、話のついでのような感じで話を切り出した。
 「‥‥奴のこと憶えているかな。ええっと、キラトだ。」
 わたしは、その名前を聞いて顔色こそ変えなかったが、内心慌ててしまった。気持ちを悟られないようにお茶を一口飲んで相手の言葉を待った。
 「先週の週末、早朝の海岸通りを散歩していた。」
 「‥‥嘘でしょう。」
 わたしは、戸惑いを隠して驚いて見せた。予想もしていない名前を突然に聞かされると人の気持ちは脆かった。
 「死んだって聞いたわよ。貴男から。」
 「‥‥えっ、俺だったかな。俺も誰かから聞いたんだよ。」
 ロサンは、記憶を錯綜させているのか惚けているのか判断がつきかねる程に余裕を失っていた。
 「まあいいさ。声はかけなかったらしい。」
 わたしは、ロサンの昔から要領の得ない話ぶりに苛立ちを抑えて聞き直した。
 「‥‥誰の話なの。」
 「えっ‥‥。だから、キラトだ。」
 「だから、誰が目撃したの。そのキラトらしき人物を。」
 わたしの言葉は、少し冷たく響いたのだろう。ロサンは、一息つくと苦虫を噛んだように顔を顰めて言った。
 「ハルトだ。」
 わたしは、その名前にロサン以上に溜息を押し殺した。
 「昔も今も、朝早く散歩するのはハルト以外にないだろう。」
 ロサンは、言葉を続けた。
 「海岸通りのバス停で独り海を眺めていたらしい。‥‥声はかけなかったと、言っていた。そうだろう。昔から独りいるキラトに声を掛けて良いことがあったかい。」
 ロサンの言うことにあながち間違いはなかった。それに、ハルトは目の前で死のうとしている者を見かけても通り過ぎるような男だった。
 「それで、今朝、見に行ったわけね。‥‥あの男はいたの。」
 わたしは、呆れたように聞き質した。ロサンが否定しないのを確認してから、深い森の先に見える館を眺めた。わたしを縋るように見つめる怯えた瞳が苛立たしかった。
 「貴男は、そろそろ帰らないと。朝寝坊のあの娘でも、必死になって探し始める頃よ。」
 わたしは、独りになりたい気分だった。ロサンは、昔から大事な局面で意見を聴きに来る男だった。そのくせ、忠告に従わない頑固さがあった。
 「若い娘なんかは、もういい加減にしなさいよ。歳を考えなさい。」
 「それは、いいよ。分かってているから。」
 ロサンの訴えるような眼の色が、痛々しかった。
 「どうすればいい。このことを知らせるべきだろうか。」
 朝早く独りで出掛けてわたしの居場所に現れたことからしてもロサンの気持ちは既に固まっているように思えた。ロサンが知らせに向かう先が頭に浮かび胸の裡で呪った。朝の夢見の悪さが想いだされて足を組み替えた。
 「‥‥知らせても、問題ないでしょう。」
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