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文字数 866文字

 あの年の春は、若い頃を思い出させてくれるように時間の流れが遅かった。キラトの噂話から始まる一連の流れがそう感じさせたのだろうか。
 何冊か手元に溜め置いていた書物を久々に紐解いた。昔のような深い感動は得られなかったが、その時の心境と重ねて読み解いて考えると面白かった。

 いつの間にか降り出していた雨を窓辺で眺めた。遠くで雷が鳴っていた。
 改めてわたしは、ロサンが齎した情報に振り回されている危うい現実に気付かされた。
 『いい歳をして、愚かね。‥‥でも。』
 そう思うと、記憶の欠片が剥がれるように思えた。
 「わたしに限った事ではないのね。と考えればいいか。」

 出掛けようかどうしようか、少しばかり迷った。連絡を入れると、予約が取れた。
 車を待つ間に短い手紙を書き切った。迎えに現れた運転手は、初めて見る顔だった。二十歳は過ぎていたかもしれない。寡黙で暗いが律義な仕事をした。車窓から流れる街の景色を眺めながら昔の男友達と比べるわたしがいた。
 会員制の船着き場には、船の用意が整っていた。雨脚は、相変わらず強かった。若者は、傘を差しかけて船まで誘導してくれた。わたし一人のために、雨の中を船は出港した。貴賓室で独りだけの大切な時間を過ごす楽しみに心が和んだ。
 船は、ゆっくりと港からでると、沖を南に向かった。雨で沿岸は霞んでいた。波の穏やかな海は、わたしを穏やかな気持ちにしてくれた。
 古城が眺望できる沖で停船を頼んだ。
 「まさか‥‥。」
 一瞬、見間違いかと我が目を疑った。雨に煙る古城の窓に灯りが見えたように思たからだ。
 『‥‥追憶なんて、置いておきましょうよ。』
 錯覚だったことに内心安堵し、胸の内で言い聞かせた。船の優しい揺らぎとお酒で心地よい酔いが訪れた。あの日、悪酔いしなかったのは、気持ちに余裕が戻り生まれ始めていたからだろう。そう考えていると、昔が無理なく想い出せて独り言ちていた。
 「‥‥誰だったかしら。海に飛び込んだのがいたわね。」

 クラブハウスに戻ると、伝言が届いていた。その行き届いた心遣いに感謝して厚意に甘えた。
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