文字数 1,100文字

 月に一度の早朝の散歩は、誰も知らなかっただろう。わたしが寝坊なのを分かっているから、それに気付けば耳を疑ったかもしれなかった。
 前日に夜更かしをしても、その日だけは薄暗い内に目が覚めた。義務ではなく習慣になっていた。その行動を知ったところで誰も非難をしなかっただろう。むしろ、冗談に捉えたかもしれなかった。唯一人、あのドナを除いては、そう思えた。ドナとは、生い立ちも年齢もその後の生き方も違ったが、同じものを見ようとしていたのかもしれない。わたしが女であり親族でなかったのが幸いしたと考え納得できても、今でも少し複雑な心境だった。

 海辺の町は、早朝から開いている店が少なかった。路面電車の終着駅に近い店で朝食を取るのが、若い頃からの習慣になっていた。顔馴染みと季節の話を交わし、お互いの近況を探り、雨の日以外は外のバルコニー席を使った。深い森の先に見える館を眺望していると、昔が懐かしくても特別な感慨は湧かなかった。あの頃の方が、もう少し新鮮な気持ちでいられたように思えて可笑しくなることもあった。それ程も歳月は、人の意識を変化させるものだろうか。わたしの細やかで素直な変化を知ったなら、驚き憐れむよりも笑いだす者もいるかもしれない。
 ドナが古い礼拝所の跡地を買いとり屋敷を建てた気持ちを慮ることができるのも、昔を冷静に振り返る年齢に差し掛かったからだろうか。

 屋敷の建築が始まった頃、毎朝この店を利用した。少しづつ出来上がっていく建物を眺望するわたしは、他の誰よりも気持ちを昂らせているのに気付き密かに笑ってしまった。だからだろう、熱心に足を運んだのだ。
 わたしの姿を目撃して誰かが話したのか。或る朝、ドナが先にバルコニーのテーブル席でお茶を飲んでいた。
 ──あら、珍しいのね。
 わたしは、驚いた素振りで挨拶した。黒硝子の眼鏡を掛けたドナに驚かなかったが、数年ぶりに会った印象の変容には、複雑な思いだった。わたしよりも下の年齢なのに物腰は重く老齢のように変貌していた。海辺の町に広がる取るに足らないドナの噂話が、耳に届いていたからだろう。気持ちを隠して陽気に尋ねた。
 ──何年ぶり。
 ──七年になります。
 丁重な物言いは、昔のままだった。
 ──ご無沙汰でした。
 ──それで、もしかしてのご招待かしら。
 ──九月の初めに完成します。
 約束を果たすことは出来なかった。若いドナは、わたしを試していたのかもしれない。彼が想うのと同じぐらいに、わたしも年下のドナを気に掛けていたのだ。

 過ぎ去った日々は、想い出として心の片隅に飾り、わたしの趣味としてこの店を使う常識を具える感性を持っているつもりだった。
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