第36話 恋のルールの効果はしばらくのあいだ持続する

文字数 4,621文字

「狭いんだな」
 玄関にはいって最初にウルフが発したことばが、これだった。
 小さなキッチンから寝室までひとめで全体がみえる間取りは1Kで、小さなキッチンと6帖の寝室だけだから、狭いといえば狭い。
「そう? これで十分よ。ひとりだもん」
「一流商社の社長令嬢の部屋には見えない」
 目を丸くしたウルフはほんとうに驚いているようだ。
「実家が広すぎるから、狭い家に憧れてたの」 
 お屋敷みたいな広い家で育ち、一人っ子だったわたしはいつも使っていない空間が泣いているようにみえて、さみしくてたまらなかった。
 だから、ごちゃごちゃと人と物が詰め込まれた狭苦しい家がわたしにとってしあわせの象徴だった。
 大学生になってここでひとり暮らしを始めたときに訪れた母はあまりの狭さに絶句していた。
「狭い家に憧れるって、ほんとに狭い家にしか住めない人に失礼なやつだな」
「失礼じゃないわよ。ほんとうなんだもん。こうやってベッドの上からなんでも手が届くって素敵でしょ? 掃除も楽だし、エアコンもすぐに効くし、わたしは狭いところにいると落ち着くの。猫と同じよ」
 ウルフは喉の奥でおかしそうに笑った。なんてゴージャスな笑顔。ウルフが笑うとまたわたしの足がゼリーになって崩れ落ちそうになる。
「そのへんに適当に座ってて。お茶いれるから」
 ウルフはぐるりと部屋を見回してから、座れそうな椅子がないことを確認して、居心地悪そうにベッドに端に腰かけた。白い木製のベッドにはウエッジウッドの水色のシーツがかけられていて、そこにスーツ姿のウルフが座っている光景が夢みたいに思える。ウルフは首の凝りをほぐすように左右に顔を傾けてから、指でネクタイをゆるめた。

 この部屋に男性を入れるのは初めてだ。
 大学一年生のときに少し付き合った彼氏もこの部屋には入れなかった。というか、部屋に入れるような関係になる前に別れたからだけど、その彼と一度だけ関係を持ったのは彼氏のワンルームマンションだった。飲み会で知り合ってデートしたノリで肉体関係も持ってみようという好奇心の塊みたいな若者同士。勢いで体を重ねてみたら、とりあえず大学デビューの関門をひとつクリアしたと感じて満足したわたしたちは、その後すぐに自然消滅のような形で別れたのだった。好きとか嫌いとかを考えるよりもずっと前の段階だった。
 その後ちゃんとしたお付き合いをした男性はいなくて、イシ君とも深い関係を持たなかったため、ここに男性を連れてくる機会はなかった。
 そのため、ここには男性が座れるような椅子はないし、向かい合って語り合えるような大きなダイニングテーブルもないし、大きなテレビモニターもない。
 ここはわたしの隠れ家のような位置づけだから、なにも考えずにウルフを招き入れてしまったことを今頃になって驚き始めた。わたしってば、なにしてるの?

 わたしはウエッジウッドのティーカップにトワイニングのダージリンティーを入れ、クッキーを小皿に並べて、ベッドの脇にある小さなテーブルに置く。そして、ドレッサーのチェアーに腰かけた。
 窓の外ではざあざあと大雨が建物や木々を叩く音がする。
「で、カーターとは何があったんだ」
 唐突な質問。
 わたしは熱い紅茶をひとくち飲んでから、見上げると、ウルフが真剣な目つきでわたしのこたえを待っていた。この話を聞きたいがために仕方がなく部屋に上がったんだ、という表情だ。大きな体がわたしのベッドをシルバニアの家みたいに小さくみせ、この部屋を狭く感じさせている。
「カーターだったの」
「なにが?」
「わたしを襲った人」
「なんだって?」驚きのあまり、ウルフの声が大きくなる。
「スタバで偶然会ったから、問い詰めたらすんなりと認めたわ」
「あいつ……殺してやる」そう言うウルフの声は抑え気味だが、表情には凄みがある。
「やめてよ、物騒なことを言うのは」
「しりはもういいのか?」
「しり?」
 ウルフがわたしの腰のあたりに鋭い視線を投げる。
「ああ、お尻? 大丈夫」
「カーターがなんでおまえを襲ったのか言ってたか?」
「ううん、よくわからないんだけど、世のため人のためとかって言ってた」
 カーターのあざ笑うような口調を思い出した。彼はなにを考えていたのだろう。
「世のため? ふざけてるな。ああ、そういうことか。あいつ、おまえの彼氏と別れろっつって脅したんだったろ?」
「うん。それってどういうこと?」
「ヤツはイシの義理の弟なんだよ。父親の愛人の子」
「え?! そうなの?」驚いた。
「ああ。母親はヨーロッパの元モデルだったかな。だから似てないだろ?」  
 カーターとイシ君が兄弟だったなんて、思いつきもしなかった。
 混血っぽい顔立ちと日本人離れした長身を思い出した。イシ君とは全然似ていない。けれど、よく思い出してみると顔の輪郭やすらりとした手足など、似ているような気もする。人間の記憶なんて当てにならない。
「じゃあ、カーターが言ってたのは、会社の継承権争いの件だったのね。イシ君とカーターのどちらが承継者になるかっていうことで?」
「イシがおまえと結婚すれば、イシの会社のパイプライン増強に王手がかかる。そうなればイシの家はぼろもうけするだろ。イシが次期社長の椅子が用意されて承継者になるのは決まりだ。カーターはそれを阻止したかったんだろう」
 そういうことだったんだ。
 イシ君がわたしの家の会社をあてにしていたことは分かっていたけど、そんなにも大きな儲けを生み出す予定だったんだ。わたしと結婚すれば、イシ君は絶対的な権力を手に入れることができたのだろう。
 イシ君がわたし(の後ろにあるもの)に夢中になっていたのも無理はない。彼は権力というものに惹かれるタイプの男だった。出会った日にわたしの素性を知ったとき、彼の目に宿ったかがやきを思い出す。彼は口ではわたしにひとめ惚れしたと言っていたけど、そうじゃなくて、わたしの利用価値に惚れたのだと今ならばわかる。最初からわたしが彼に感じていた違和感はこれだったのだ。
 わたしは立ち上がって窓に近づいた。
 外では風が強くうなり、大粒の雨が窓を叩く音大きくなってきた。カーテンを少し開いて暗闇に目をやると、庭の木々が嵐の中で揺れる船のように見える。
「すごい雨。こんなどしゃぶり、この時期に珍しいわよね」
 ウルフも立ち上がって、わたしの隣に並んだ。そして、一緒に窓の外を眺める。狭い部屋でウルフが立ち上がると天井が低くなった気がする。
 静かな室内と対照的に外では轟々と音が響いている。
「イシ君には、お断りしたの」
 唐突に言う。
 ウルフが振り向いてわたしの顔をみる。驚いているようだ。
「断った? なにを」
「結婚を。連絡を取るのも、やめたの」
 そう言うと、ウルフは信じられないというようにわたしの目を見た。
 わたしはうなずく。
 わたしの言葉に嘘がないことをウルフは理解したようだ。
 グレーのスーツに身を包んだウルフはもう学生のころのやんちゃな男ではない。落ち着きを備え、紳士でクールな大人の魅力を放っている。ネクタイを緩めた首は太く、喉ぼとけは力強い。そして、黒い瞳は魅惑的にかがやいている。
「もったいないな」
「だって、好きじゃないし、それに、家のためとか、お金のために結婚するなんて、わたしには無理」
「贅沢な悩みだな。金持ちと結婚したくてもできない女に失礼じゃないか」ウルフが眉をあげて悪戯な笑みを浮かべる。本音ではないという合図だ。   
「失礼じゃないわよ。むしろ、そんなことを言うウルフのほうが失礼だわ。わたしは、ちゃんと、好きな人と一緒になりたいの。そういう女性も多いのよ」
 ウルフはわたしから目をそらし、窓の外を見つめた。
 豪雨と暗闇の向こうにはなにも見えない。
「おれにはわからんな。そういうくだらないことは」ぽつりと言う。
「くだらなくないよ。人生でいちばん大事なことよ、人を愛するって」
 ほしい物は何でも買えるし行きたい場所にはどこにも行ける裕福な家で育ったわたしにとって、『愛』のある家庭はあこがれだった。『愛』というものが具体的になにを意味するのかわからないけれど、自分の家には希薄だったことだけはわかっていた。だから、『愛』の正体を追い求めて恋をしているのかもしれない。 
「いや、『愛』なんて言葉は幻想だ。女を都合よく扱うための」
「どういう意味?」
「ただヤリたい男が『ヤリたい』って言う代わりに『愛してる』って言うためのきれいごとだ。女は言葉に弱いからな」
「そういう男性ばかりじゃないわよ」
「いや、男はみんなそうだ。汚い欲望をごまかす言葉なのさ」ウルフに投げやりに言われると、腹立たしくなってくる。
「そんなことないわ! 人間にはもともと人を愛することが本能として組み込まれてるのよ。どんな人にも、本当は愛されたいし愛したいと思ってるはず。わたしはそう思ってる」
 聞き役に徹すると決めたのに、黙っていられなかった。
 ウルフを否定して持論を繰り広げたせいで、また口喧嘩になるかと思ったら、わたしの予想に反して、ウルフは黙りこんだ。
 雨音だけがふたりの間を木の葉のように漂う。
「おまえがどう思おうが勝手だが。おれは……だれも愛せない」
 ウルフは窓の向こうを見たまま、ひとりごとのように言う。
「どういうこと? 人を愛せない人なんていないわよ。わたしにはわかる。ウルフにもちゃんと愛がある」
「ないよ。おれのことを『女の敵だ』っておまえも言ってただろ」ウルフはカーテンを閉めて振り返り、おかしそうに笑う。
 学生時代、女性をとっかえひっかえして捨てていたウルフのことをわたしはよく揶揄していた。サイテーな男。女をなんだと思ってるの? 女の敵だ、と。
 けれど、それはふざけていただけで、本当は女性に本気になれない弱虫だと思っていた。言葉にはしなかったけれど、ウルフが女性を傷つけているとは思えなかった。結果的に女性が傷つくことはあったけれど、故意的に傷つけていたわけではないのだ。ただ、彼は弱いだけ。優しいだけなのだ。
「じゃあ、なんで今夜わたしを送ってくれたの? 心配してくれたのだって『愛』よ」
「送ったのは、おまえが襲われて面倒なことになるとおれが困るから。そういうのを自己中って言うんだ」軽口を叩いているけど、目は真剣だ。この人の目はいつも、真剣だ。
「じゃあ、なんでわたしをそんな目でみるの?」
 ウルフの瞳は黒々と燃えている。この世には黒い炎もある。
「目?」
「欲しくてたまらないっていう目」
 そう言うと、ウルフはグッと歯をかみしめた。図星。
「それは、リリィのほうだろ」ウルフが言う。
 売りことばに買いことば。
 だけど、わたしの唇を見る目は熱を帯びている。
 そして、形の良いウルフの唇。その見た目よりもやわらかな感触を思い出して背筋がふるえる。
「……ふたりとも、だったりして」思わず声に出してしまう。
 ウルフとわたしの間を漂う雨音はぐんぐんと音量をあげる。大きな雨の雫はアスファルトをドラムのように叩く。まるで、あのときクラブの貯蔵庫で聴いたダンスミュージックの重低音のように。それはわたしの心臓の鼓動を跳ね上げる。
「……そうかもな」
 ウルフの低くかすれた声が聞こえた途端、わたしたちの唇は磁石になったようにぴったりと重なった。
 その瞬間、わたしはこれを求めていたのだとわかった。
 この熱。この感触。このぬくもりを。
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登場人物紹介

ウルフ 

男。大学三年生。リリィがひと目ぼれした相手。

リリィ 

女。大学四年生。このお話の主人公。

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