第22話 恋されたければ自分の情報は小出しにしなくてはいけません

文字数 3,133文字

 男性に大切にされたければ、恋愛のステップアップは焦らさなければならない。
 ステップというのは、初めての会話、初めての電話、初めてのデート、初めてのキスなど。すべてにおいて男性にリードをとってもらい、女性は一歩引くくらいがちょうど良いのだ。
 たとえば初めての会話ではすべてをさらけ出してはいけない。初めて顔を合わせた時は、名前と連絡先を知らせるくらいでちょうどいい。そのほかの情報は男性側の想像にまかせればいい。男性の想像力は女性の想像以上に自己中心的で、自分の都合の良いように好意的に想像してくれるもの。だから、女性はあまり情報を与えず、男性に夢をみさせてあげればいいのだ。
 初めての電話やデートにおいても、女性は自分のことをさらけ出して男性の夢を壊してはいけない。尋ねられたことの半分くらいをこたえれば十分だ。
 キスも同じ。求められたらすこし引くくらいがちょうど良いのだ。けっして、男性よりも好意をみせてはいけないし、男性の欲求を簡単に満足させてはいけない。焦らせば焦らすほど、女性の価値はあがるもの。量販店に積み上げられてたたき売りされるような粗品でも、数量限定で手に入りにくいお宝のラベルが貼られると価値がぐんと上がるでしょう? それと同じだ。簡単に手に入る女になってはいけない。簡単にキスさせてはいけない。簡単に好意をみせてはいけないのだ。
 この女性はおれのことを好きなのだろうか? この女性のことをもっと知りたい。そう思わせておくことが、男性の恋心の燃料となり、恋はいずれ愛に変わる。愛こそが、すべての女性がもっとも求めているものだもの。でしょう?
 だから、お付き合いの申し込みを受けていない相手にキスを許すなんて、恋のルール違反もはなはだしい。しかも、女性からも積極性をみせてしまうなんて、もってのほかである。


 
「おもしろい記事をまた見つけたんだけど!」
 電話に出るといきなり甲高い声。サチだ。
「サチ、興奮しちゃって、どうしたのよ」わたしはひそひそ声で周囲を見回す。ここはオフィスなのだ。
「ウルフのことよ! また記事になってるのを見つけたの。今度はビジネス誌よ!」
 サチにはウルフと会ったことを言っていない。なんでも話せる仲なのに、ウルフのことはなぜか話したくないのだ。
「それがどうかしたの?」
「今度は『いま一番ホットな天才投資家』っていうタイトル。すごいよね。その記事に写真も載ってて、超高層ビルでゴージャスなソファに座ってるんだけど、それがもうヴォーグのモデルも顔負けのカッコよさなのよー」
「へえ」
「それからね、こないだのファッション誌をみた女性の読者たちからウルフにファンレターが殺到してるらしいわよ。メールだけじゃなくて、お菓子とかぬいぐるみなんかを送ってくるファンもいるとか。ぬいぐるみを送り付ける神経がわからないわ。自分の分身のつもりなのかしらね。これは雑誌の編集部雑記欄に書いてあったことだけど」
「詳しいのね」
「嫌でも詳しくなっちゃうわ。妊婦は暇なのよー。はやく生み落として楽になりたいっていうか、早く仕事復帰したい。ケイ君は帰ってくるの遅いし、昼間のテレビはどれもつまんないし。暇で頭がボケちゃいそうなの。リリィはいま何やってるの?」
「まだオフィスよ。今日は残業が長引いちゃって、ちょうど帰ろうとしてたところ。またこっちに来ることがあったらランチしよっか? まだ電車乗れる? おなか大丈夫?」
「太ったせいかもしれないけど、おなかがどんどん大きくなって岩みたいに重くてぜんぜん動けないわ」
「それは大変ね。ストレスも溜まるでしょう? じゃあ、出産前に一度わたしがそっちに行くわ。サチの家の近くでお茶でもしよう」
「助かる!また連絡して!面白いネタ探しとくから」
「はいはい」
 わたしはスマホをバッグに入れてPCをシャットダウンし、フロアの電灯を消してバッグを肩にかけてオフィスを出た。時計をみると、十二時五分。明日取引先に送る予定のレポートを仕上げるために遅くなってしまった。走らないと終電に乗り遅れてしまう。
 小走りで大通りを抜けて地下鉄の駅に向かった。この深夜のオフィス街には人がほとんどいない。ウルフと最後に分かれた交差点にも車の往来もなく、信号だけが夏の終わりのホタルのようにむなしく光っている。
 
 あの夜、ホテルのエレベーターの中でウルフとキスしてから十日ほどが経った。
 あれ以来、ウルフからは何も連絡がないし、わたしからも連絡をしていない。キスしたことを後悔しているのはお互い様なのだろう。
 あの夜の出来事はなかったことにしたい。デリートキーを押して消去したい。
 けれど、会話は楽しかったし、食事はこの世のものとは思えないくらい美味しかったし、夜景は綺麗だったし、ウルフはとんでもなく魅力的で、そして、キスは史上最高に情熱的だった。イシ君とのキスでは唇同士の皮膚の接触にすぎず、それ以上でもそれ以下でもないのに。ウルフとのキスでは体中の細胞が目覚め、脳みそがひっくり返り、足のあいだが溶けていく恐怖と歓喜の入り混じった感覚だった。体が覚えてしまった感覚はなかなか消えてくれない。
 やはり、会わなければよかったのだ。

 そんなことを考えていたら、途端にずっしりとした疲労を感じた。
 最近ほとんど食べていないせいで貧血気味なのかもしれない。これ以上走る力がないため、終電はあきらめてタクシーで帰ろう。そう思いながら交差点をゆっくりと歩いて渡り、向いにあるビルの端にたどり着いて壁を背にしてしゃがみ込んだ。冷たい木枯らしがびゅうっと吹いて、トレンチコート越しの体を冷やす。周囲の高層ビルを見上げると、黒い窓と明るい窓が点在している。
 こうしていると、いずれ商社の役職に就くという人生は自分にはまったく向いていないことをしみじみと感じる。どんなにやりがいがあると言われる仕事をしても、どんなに会社に貢献しても、社会に貢献しても、この胸に空いた空洞は埋まらない。むしろ広がっていく一方で、冷たい風がびゅうびゅうと吹き込んでくる。
 わたしは、情緒的で内向的で野心のない無能な女なんだ。どこにでもいるOL。社会という歯車のなかの小さなひとつのピースにすぎない。代替品は五万とある。

 立ち上がってトレンチコートの裾を手ではらう。
 そして、タクシーの停留所まで歩こうとした瞬間、後ろから腕と肩を強い力で引っ張られた。
「きゃぁ……っ!!」
 なに……?!
「いたぃ……っ!!」
 誰かに腕で首を固定され、後ろに強く引かれてビルとビルの隙間に引きずり込まれた。
 人幅くらいしかない細い隙間には明かりが届かず、真っ暗闇だ。
 腕を後ろ側からひねられ、肩に鋭い痛みが走る。
 喉に後ろから腕を回されて固定されているため、振り向くことができない。
 いったい誰なの?! 
 体の大きさからして、男性のようだ。
「や、やめて……ぅっ!」
 声を出そうとすると、大きな手のひらで口を覆われた。途端に息が苦しくなる。

 大声を出そうにも、口を抑えられているせいで、まったく声にならない。
「う……ー!!」
「黙れ! よく聞くんだ。イシと別れろ。さもなければ、七光商事をつぶしてやる!」
 耳元でドスの効いた低い男の声。
「いいか!? イシと別れるんだ! わかったか!」
 なにがなんだかわからず、わたしは首を激しく前後に動かした。
 それを肯定の意に取ったのか、締め付ける腕がいきなり解放されて、わたしは前に倒れ込み、アスファルトに膝を強打した。
「いたぃ……っ!!」肩もしびれている。
 背後では男が走り去る音がした。
 肩と膝の痛みに耐えながら振り向くと、ビルの谷間は真っ暗で、男の姿は消えていた。

 
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登場人物紹介

ウルフ 

男。大学三年生。リリィがひと目ぼれした相手。

リリィ 

女。大学四年生。このお話の主人公。

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