第3話 恋されたければこちらから電話を切らなくてはいけません

文字数 2,365文字

 男が女を好きになるのは、自分の遺伝子を残したいという強い生存本能の表れだ。
 そして、生存本能は人間がもつ本能の中でもっとも重要なもので、肉体を支配している強い本能だ。そう。本能は人間を支配する魔物なのだ。
 古来から人間は雄(男)が狩りをして獲物を捕まえて食べたり、生活空間を守るために戦ったりしてきたため、生存本能から派生した恋愛感情も同じ種類のもので、女がもつそれとはまったく別の種類の本能であり、能動的で攻撃的なものなのだ。
 人間という鎧を被って礼儀正しくみせているが、男性の肉体に棲む恋愛本能は、能動的なものなのだ。
 女性がいくら「わたしに恋して!」「わたしを好きになって!」「わたしを大事にして!」と言っても、男性が彼女のその望みに従いたくても、男性はそれに従えるものではない。逃げ出したくなるものだ。男性に棲む本能とう魔物は自分をおいかけてくる女性のことを敵と認識し、逃げ出したり攻撃したくなるものだ。
 そのため、男を恋に落としたければ、女は好意をみせてはならない。むしろ「わたしを好きにならないで!」と言ったほうが追いかけたくなるのが男性という生き物ではないだろうか。
 このように考えて、わたしは手帳にこう記していた。 

『こちらからデートに誘ってはいけません』

 男性に激しい恋に落ちてもらうためには、これはとても大切なルールなのだ。

「おまえさ、せっかく電話してやったんだから、もっと喜んだら?」
 ウルフはあくびを嚙み殺したような間延びした声でそう言った。
「頼んでないでしょ。電話して、なんて」
 電話はいいものだ。この世のものとは信じられないくらい美しい顔をみなくて済むから、面と向かって話すときよりも平静を保てる。しかも、自作の『ウルフを恋に落とす方法』が書かれた手帳の記述を見ながら話せるのだ。わたしは枕元にいつも置いている手帳を手に取ってページをめくり、禁句リストに目を走らせた。
 『× 電話してくれて嬉しい♡(好意を示してはなりません!)』 
 『× いま何してるの?(興味を示してはなりません!)』
 『× 今度〇〇に行かない?(デートに誘ってはなりません!)』
 
「で、なんの用件なの?ウルフ?」
「…ああ」
 ウルフが口ごもった。
 電話はいいものだ。わたしは再度思った。耳元でウルフのかすかな空気感まで感じることができる。あの傲慢で何事にも動じないウルフでも口ごもることがあるのだと思うと胸がきゅんと音を立てた。
「最近おまえ、ベンチに座ってないだろ」
「あ、うん」
 あのベンチに座っていたのは、ウルフに話しかけられるための策だった。もうそのステージは越えたから、あのベンチに行く必要はなくなった。だって、座りにくいんだもの。
 でも、そのことはウルフには秘密だ。
「なんで来なくなった?」
「え、いろいろ忙しいからよ」
「違うだろ」
「え?」
「おれと話せたから、もう必要なくなったんだろ?」
「バ、バカじゃないの?違うわよ。忙しいの!」
「おまえが忙しいはずがない。バイトでもしてるのか」
「ううん、してないけど……」
 わたしの父は某商社の社長のため、わたしはいわゆる富裕層のお嬢だ。バイトなんかしたら父に怒られるだけだ。父の口癖は『もっと良い服を買いなさい』『もっと高い物を買いなさい』だ。
「で、おまえいま何してんの?」
「え、いま?読書、よ、読書。せっかくいいところだったのに、邪魔されたけど」
 わたしは手の中で手帳を閉じた。
 ウルフの声が、わたしの胸を締め付ける。胸の中でカラフルな蝶々が飛び回っている。
「それは悪かった。そういやあ、ジャック・ロンドン、読んでみた」
「え…?!」
「なかなか良かった」
「え!ジャック・ロンドンの野生の呼び声?読んだの?あんたが?ほんとに?」
「読んだっつってんだろ」
「びっくり。ウルフって本とか読まないような人にみえるから」
「読むよ。こうみえて、読書家なのさ」
「うそ。どうだった?どうだった?最高じゃない?!」
 興奮が体を駆け巡る。わたしはジャック・ロンドンのファンなのだ。
 大好きな作品を大好きな人が読んでくれたという事実がわたしを天にまで舞い上がらせた。
 それからのわたしは、止まらなかった。
 ジャック・ロンドンの作品について、どこが良いのか、電話越しにウルフに捲し立てた。そして、独自の解説を長々と語り始めた。どんなに彼の作品が素晴らしいのか、そして、なぜ今の日本ではあまり売れていないのか、思うがままに長々と語った。
 ジャック・ロンドンの生い立ちが垣間見える『マーティン・イーデン』についても語った。貧困層出身の彼の人生の光と闇、ラストの切なさを語った。身分社会に対する憤りまで語った。
 ペラペラと話した。
 元来、わたしはオタクなのだ。根暗なのだ。
 男性を恋に落とすこととは程遠い、男性の恋を萎えさせてしまう名人なのだ。
 あれほどウルフを恋に落とすためのルールを作ってきたのに、ルールのことなどすっかりと忘れてしまっていた。
 電話越しにウルフのため息を聞いて、我に返ったときは、深夜12時を過ぎていた。しまった…!!!
「もう12時!?」
「おまえ、話が長すぎ。電話代払えよ」
 彼は面倒くさそうにそう言った。
「ごめん、でも、そっちからかけてきたんでしょ?」
「ほとんどずっとおまえが話してたんだろ。おれ、明日も朝はやいから」
「え?なんで早いの?」
「バイト」
「え?なんの?」
「じゃあな」
 ウルフがそう言った瞬間に、電話が切れた。
 ウルフの中にほんのかすかに灯ったようにみえた恋の火が消えたのだ。

 枕元に置かれた手帳の中では、むなしく文字が躍っていた。
『× 自分の話をしてはいけない』(謎めいた女になること。謎は恋を引き寄せる)
『× 電話は3分で切る』(どんなに楽しい話の途中でも、こちらから切ること)

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登場人物紹介

ウルフ 

男。大学三年生。リリィがひと目ぼれした相手。

リリィ 

女。大学四年生。このお話の主人公。

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