第12話 大切にされたければ人間の本質を理解しなければなりません

文字数 3,041文字

「リリィ、今日の講演会行く?」
 学食でカスタードプリンを食べていると、サチがナポリタンを載せた皿をもって目の前に座った。
 ベージュのワンピースに白いパールのネックレスを身につけて、いつもよりも清楚な格好をしたサチはまるで育ちの良いお嬢様にみえる。本当に育ちはいいのだけど、普段はくだけたカジュアルファッションだから違和感がある。
「うん、いちおう行こうと思ってるけど。有名な政治学者でしょ? せっかくだしね。サチは? 」
「行きたかったんだけど、急用が入っちゃって。講演の感想あとで教えてくれる? ケイ君のご両親と食事会なの」
「え!そうなんだ。顔合わせみたいなの?」
「そうじゃないと思うんだけど。ただ食事に誘われただけ。でも緊張するわー。ミクニでフレンチのコースですって」
「わーそれは緊張するわね。粗相をしないように気をつけなくっちゃだね」
 サチはぶるぶると震えてみせた。
 それから、はっと気づいたようにして、わたしの顔をじっと見つめる。
「なんか、リリィ、痩せた?」

 南青山のクラブの貯蔵庫でウルフにキスされてから三日が経った。
 けれどウルフからは何の連絡もなく、大学内でも姿をみていない。
 あのときの状況を思い出して、嬉しくなったり悲しくなったり苦しくなったり、さまざまな感情に襲われて、わたしは顔を赤くしたり青くしたりすることを繰り返している。一睡もできない。
 シンプルにまとめると、キスされたのに、キスに応えたら振られた、という感じなのだ。
 そう。振られたの?
 告白したわけじゃないから、振られたわけではないのだけれど。
 サチに話せるほどに整理できていないから、とりあえず隠すことに決めた。
 
「目の下が黒っぽくなってるよ。それ、くま?」
「ううん、ちょっと寝不足なだけよ。最近またおもしろい小説みつけて、一昨日と昨日は徹夜しちゃったの」
「さすがリリィ、オタクだからすぐにハマっちゃうのよね。でも、せっかくの美貌が台無し。ちゃんとメイクで隠したほうがいいわよ」
「そう? そういえばメイクするの忘れてたわ。ちょっとお手洗いでメイクしてくる」
 そう言ってサンローランの真っ赤なポーチを片手に立ち上がろうとしたところに、
「やあ、リリィ!」
 スカイブルーのセーターを着たゴウ君がパンの袋を片手にもって来た。
「今日の講演会、行く?」
「うん。そのつもりだけど」
「ぼくも行くから、一緒に行こう。これ、ちょっとここで食べてから」
 そう言ってわたしの隣に座り、パンの包みを開けた。焦がしバターの良い香りが広がる。
「わぁ、これってロブション? いいなぁ」サチが黄色い声をあげる。
「うん。焼きたてだよ。いま本店で買ってきたんだ。食べる?」
「ありがとうー!」
 ゴウ君からもらった小さな焼きたてクロワッサンをサチとわたしは頬張りながら「おいしー」と声をあげた。
「今度、みんなでロブションのコース食べに行こうよ」とサチ。
「いいね。卒業祝いに。予約入れとこうか? 苦手な食材とかある?」とゴウ君。
 ゴウ君はいい人だ。育ちが良い。穏やかで、紳士で、気配りができて、みんなに優しい。それは、生活に余裕があるからだろう。
 ウルフだったら、パンを買うためにも肉体労働をしなくてはならないのだ。わざわざ高級品なんかを買おうとしないだろうし、もし買ったとしたら、時間と労力をかけて買ったその物を快く他人にあげることはないだろう。
 そう思った瞬間、ウルフの捨て台詞を思い出した。
『おれとおまえは違う』
 そういうことだったんだ。
 ウルフとわたしは違う。
 物事ひとつひとつのとらえ方が、価値が、違うんだ。
 それをウルフはわかっていたから、だから、そう言ったんだ。
 わたしたちは関わらないほうがいい。そういう意味だったんだ……。



 講演会は大学でいちばん広い講堂で行われる。
 ドーム型の講堂はこの大学の歴史的建造物として、時々新聞にも取り上げられてきた。見上げると西洋と東洋の折衷模様が彫り込まれた天井にライトが反射して輝いている。
 有名な政治学者の講演ということで人気があり、座席を取る学生たちで講堂が溢れていた。
 わたしとゴウ君はいちばん後ろの中央の席を取ることができ、そこに座ってパンフレットを開いた。ゴウ君はお父様のつながりで、その政治学者と食事をしたことがあるのだと話した。
「葉山に別荘をもってて、そこにコックを呼んだんだ。近くの海で採った魚介を使ってブイヤベースを作ってもらったんだけど、美味しかったなぁ」
「へぇ、海をみながら食事したのね。素敵」
 そんな話をしていると、ふいに大きな背中が視界を遮った。
 ウルフだった。いつもと同じグレーのシャツに履き古したジーンズだけど、とんでもなく魅力的だ。彼が視界に入るだけで空気の密度が濃くなる気がする。
 ちょうどわたしとゴウ君の前の席が空いている。
 茶色ロングヘアの女性が「よかったー。二つ空いてるから、ここにしようよ」と座席を指さして言う。
 ウルフはチラっとわたしとゴウ君を見て、そこにはなにも存在しなかったように無表情のまま前を向いて、座席に腰を下ろした。
 わたしの前に女性、ゴウ君の前にウルフ。
 ロングヘアの彼女からディオールの香水の華やかな匂いが漂ってくる。
 彼女はウルフの肩に手を置いて、耳元でなにかを囁いてくすくすと笑う。そして、バッグの中からキャンディを取り出してウルフの口に近づける。ウルフは眉をしかめて嫌そうな表情をしたが、彼女は指でウルフの唇に押し込んだ。ウルフは渋々と口の中でキャンディを転がす。
 そんなふたりの様子をみているわたしの隣ではゴウ君が葉山の別荘で行われた食事会の話をつづけていた。わたしはうなづいたり笑ったりしながら、ウルフと彼女のやり取りをずっと目で追っていた。

 壇上に教授がのぼり、マイクに向かって挨拶を始めると、生徒たちの雑談が止んで静かになった。
 わたしの前の席の彼女の手が横に伸び、ウルフの手を握った。
 ウルフは微動だにせず、ただ、彼女に手を握らせていた。
 わたしが後ろからみていることには気づいているはずだ。それなのに、彼女を拒否もしない。彼はわたしに見せつけているの?
 彼女はぴったりとウルフに身を寄せ、まるで、これからロマンチックな映画でもみるかのようなムードだ。他方でウルフは気だるげに前を見つめて、口の中で飴玉を転がしている。彼がいつも女性といるときの表情だ。気だるげで、鬱々として、無表情。
 あの日、貯蔵庫で激しく欲情して下半身を押し付けてきたウルフの片鱗もない。
 ウルフには両極端な二面性があるのだと思う。氷のような冷酷さと、溶岩のような情熱。
 そのふたつは一見正反対にみえて、じつのところ、根本は同じなのだろう。
 それは不平等な社会にたいする憎しみだろうか。 
 それとも、人を愛したくても愛せない悲しみだろうか。  
 人間の心理は多面的な球体で、見る角度によって違ってみえるに過ぎないとわたしは考えている。だから、冷酷な面も情熱的な面もウルフの一部であって、わたしはそんな彼に恋をしているのだと思う。

 壇上から聞こえる教授の話がまったく頭に入ってこなかった。
 ぐるぐると思考が回転して止まらない。吐き気がする。
 わたしはバッグを手にして、
「気分がすぐれないから、先に帰るね」
 ゴウ君にだけ聞こえるように小さな声でそう言って席を立ち、すみやかに講堂を出た。
 そして、夕刻の混雑に飲まれながら家に帰り、ベッドに倒れこんだ。

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登場人物紹介

ウルフ 

男。大学三年生。リリィがひと目ぼれした相手。

リリィ 

女。大学四年生。このお話の主人公。

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