第23話 恋されて大切にされたければ彼の話をオウム返しで聞きましょう

文字数 3,774文字

「その怪我、どうしたの?」
 イシ君は目を丸くして尋ねた。秋風が吹いてスカートの裾が翻り、絆創膏が露になったのだ。
 深夜のオフィス街で何者かに羽交い絞めにされて脅迫されてから一週間が経つ。膝の怪我はカサブタになっていて、大き目の絆創膏で隠してある。
「ちょっとつまずいて、転んじゃったの。あはは」
「大丈夫? 気を付けないと。綺麗な足なんだから」イシ君は眉をひそめる。
「大丈夫よ。ちょっとしたかすり傷だから」
 イシ君は、なだ万の弁当を食べ終えて、ペットボトルのお茶を飲んだ。新宿御苑に来る前に近くのデパ地下でわたしが買ってきたものだ。
「弁当、美味しかったよ。ありがとう。次回はリリィの手料理が食べてみたいなあ」最後の一文をひとり言のようにつぶやく。
「イシ君は料理得意なの?」
「いや。ぼくは料理はまったく出来ない」
「わたしも得意じゃないわ」
「でも、リリィはいずれ家庭に入るんだから、料理が得意になると思うよ。母もそうだったって言ってた」イシ君との会話ではよくお母さまの話が出てくる。
「そう? 料理は女性の役割だと思う?」
「もちろんだよ。ぼくはこうみえて古風な男なんだ。リリィも古風だよね? 普通の女と違って欲がないし。だからぼくたちは合うと思ったんだよ」イシ君はその考えに何の疑問も持っていないようだ。
 けれど、わたしに欲がないのは、イシ君に恋していないからだ。
 恋していないから、わたしを知ってほしいとかわたしをもっと好きになってほしいという欲もない。それに、肉体的な欲望がないのだ。こうして隣にいても、肌が吸い寄せられるような感覚がない。それはわたしだけでなく、イシ君も感じているはずだと思う。
 わたしたちがデートをするようになって半年ほど経つけれど、まだ肉体関係をもっていない。結婚するまではそういう関係を持ちたくない、とわたしが先に言ったのだ。
 イシ君は「リリィは古風なんだね。そういうところも好きだよ」と言ってすんなりと受け入れた。受け入れたというより、共通認識なのかもしれない。わたしたちは本能的に惹かれ合っているわけではなく、家名で惹かれ合っているのだという暗黙の了解のようなものがある。イシ君には多分ほかにも恋愛中の女性の存在があって、だからこそイシ君はわたしの男性関係を尋ねてこないし、わたしにたいして深い興味を持っていない。

 本当のわたしは古風なんかじゃないのだ。
 ただ、イシ君に対しては欲望がないだけ。
 そう。わたしはイシ君に恋していない。そのことから目を背けてきたけれど、ウルフに再会して気づいてしまった。本物の恋は、激しい吸引力を伴うものなのだと。
「母がリリィに会ってみたいって言うんだ。今度一緒に食事でもどうかな?」
「え、お母さまと?」
 わたしたちはベンチから立ち上がり、鮮やかな紅葉に彩られた小道を歩いていく。
 頭上では鳥がさえずり、木々の間からは穏やかな秋の陽射しが降り注ぐ。
「リリィの家の会社は、最近ヨーロッパ取引を強化しているよね。北欧、東欧、西欧、南欧とバランス良く事業を拡大してるって聞いた。うちの会社もヨーロッパにいくつか支社をもってるけど、これからヨーロッパの東欧の国に積極的に進出したいと思ってる」
「そう」
「だから、ぼくたちが結婚したら、互いのパイプラインを利用し合って、事業拡大が一気に進み、メリットになると思うんだ」イシ君は誇らしげに鼻の孔をふくらませた。
「だから、わたしと結婚したいの?」
「いやいや、そうじゃないよ。ぼくとリリィは価値観が合うと思うからだよ。お互いに古風な者同士だし。それだけじゃなくて、メリットも大きいっていう話をしてるんだ」
「そう……」
「はやく返事をもらえるとありがたいな。母と食事するときまでに、婚約だけでも決めておきたいんだ」
「え……」
 イシ君が会社の話を持ち出したのは初めてだった。
 先月母が言っていたように、彼は継承権争いの真っただ中で焦っているのかもしれない。
 わたしはそのための駒なのだ。それが結婚なのだ。
 イシ君にとってたぶん、わたしとの結婚は次期社長に椅子を得るための王手なのだろう。
 付き合い始めたころからわかっていたことだけど、それが現実として身に迫ってくると、太い鎖で足をつながれるような嫌悪感が芽生えた。この状況に。この状況を受け容れている自分に。そして、この状況を嬉々としているイシ君にたいして、嫌悪感が膨れ上がっていく。
「赤坂に母が行きつけの料亭があるんだ。銀鱈の西京焼きが美味しいんだけど、リリィも好きだよね?」
「え、あ、うん」
「じゃあ、そこにしよう。一番高いコース料理がいいよな。政治家がお忍びで来る店だから、人気があって予約が取りにくいんだ。来月の週末で予定が合う日をピックアップしておくよ」
「わかったわ」
「ほかにも銀座にも母がよく行く京料理店があるから、そっちでもいいかもなぁ。ちょっと今夜聞いてみるよ。母は料理に詳しくて、とくに京料理にはうるさいんだ」
 イシ君は母親の話をしつづけた。わたしは彼の話にうなづきながら、足に巻かれた鎖の重みで地面に埋まっていくような感覚をおぼえた。喉の奥になにかが詰まったような息苦しさを感じる。
 いつもよりも無口になり、彼の話にうなづくだけのわたしを疑問に思うことなく、イシ君は子供のころの話をしたりスマホで紅葉の写真を撮ったりと、楽しそうにみえた。そして、そんなイシ君の姿をみて、ますます気持ちが冷えていく。
 女性側が話すことを放棄し、彼の話をオウム返しで聞き役に徹すれば徹するほど、彼は受け入れられているのだと勘違いし、自尊心が満たされ、彼女に愛されているのだという幻想を抱き、男としての満足感も増すものだ。それが男女の法則であり、恋愛の法則だ。



 幼いころは「これからの時代は女の子も手に職をつけて活躍するのよ。だから真面目のお勉強しなさい」と言われて育った。
 そして大人になると、「女性はデキないふりをしなきゃダメよ。そうしないと売れ残っちゃうわよ」と言われる。 
 わたしたち女性は結局、男の都合に振り回されているだけなのだと思う。
 そう思うのは、わたしだけ? 
 そう思ってしまうのは、仕事ができない女の負け惜しみなのかしら?
 わたしは思いきり強くエンターキーを押し、契約書の最終ドラフトを仕上げた。
 今夜もこの時間までオフィスで残業をしているのは、わたしだけだ。
 ネスプレッソマシンで淹れたコーヒーの苦みが喉の奥に残っている。
 レストルームで歯を磨いて顔を洗い、オフィスの灯りを消してシャトルエレベーターに乗った。
 終電まであと十五分あるから、普通に歩けば十分間に合う。
 エントランスを抜けて大通りに出ると、人の姿はほとんどなかった。
 
 二週間前に受けた脅迫の件は誰にも言っていない。
 警察沙汰になると会社のイメージダウンにつながるし、家族に余計な心配をかけたくないからだ。それに、そもそも犯人の顔をみることができなかったし、証拠がなにも残っていないから解決の手立てがない。
 『イシと別れろ』と脅迫者は言った。けれど、なぜ? 
 脅迫者はわたしとイシ君の関係を不都合に感じる立場ということだ。
 ということは、男はイシ君の愛人? 
 それとも、イシ君の愛人から依頼されたその筋の人? 
 それとも、まったく別の理由があるのだろうか? 
 脅迫される理由に検討がつかないのだ。それが判明するまでは、誰にも言わないほうがいいような気がした。下手に情報が漏れて週刊誌ネタにでもなったら、会社に悪影響が出てしまう。
 わたしは交差点を渡り、ビルとビルの隙間の前で立ち止まった。
 わたしを脅迫した男は、あの夜ここでわたしを待ち伏せしていた。この隙間の奥はいったいどこにつながっているのだろう。
 一歩足を踏み入れて奥をのぞいてみるも、真っ暗でなにも見えない。人幅くらいの細さしかなく、どの道からも完全に死角になっていて、光が入らないのだ。排水管のようなかび臭い匂いと煙草の入り混じった匂いがする。この奥はどこかの建物につながっているのだろう。目を凝らしてみても、なにも見えなかった。
 諦めて踵を返し、通りに戻ろうとした瞬間、
「きゃあ……うっ!……!」 
 背後から顔を布のようなもので覆われ、首に腕を回され、後ろ側の隙間に引っ張り込まれた。
 ずるずると奥に引きずり込まれる。真っ暗闇だ。大きな男に腕を後ろ側からひねられ、せっかく治りかけていた肩にまた鋭い痛みが走る。
 力いっぱい首をふって、顔に押し付けられた布切れが下にずれ、その隙間から息を吸うために必死で身をひねって見上げた。
 すると、そこには黒っぽいスーツの長身の男の姿。
 黒いマスクをしているが、暗闇の中にヘーゼル色の鋭い瞳がみえた。この色、どこかで見た気がする。
「自分から入ってくるとは、バカな女だな。こっちから出向く手間が省けてよかったよ」男が後ろからわたしの耳元で低く言う。「おまえ、殺されたいのか?」冷たい声色に背筋が凍る。
「いや……っ!や…!」声を出そうとしても、口を覆われていて無理だ。息が苦しくなる。
 いや!
 もしかして、この男、凶器をもってるの?
 わたし、ここで殺されるの……?!
 オフィス街のど真ん中の隙間で死ぬ可能性があるなんて、思いもよらなかった。
 
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登場人物紹介

ウルフ 

男。大学三年生。リリィがひと目ぼれした相手。

リリィ 

女。大学四年生。このお話の主人公。

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