第32話 結婚に通じる道はすべての価値観に通ず。

文字数 1,465文字

「どうして別れようなんて言うの? なんかあった?」
 帰宅してからコートを脱いで手を洗い、それからベッドに座ってすぐにかけた電話で唐突に「別れましょう」と言ったわたしに対してイシ君は何度もこう訊いてきた。
 まだ結婚を考えられないの。家のために結婚するとか考えられないの。わたしは家のためとか会社のためとか財産のために結婚をするという考え方が苦手なの。ごめんなさい。
 そういうことを延々と電話口で説明しても、イシ君の耳には入っていかないようで、まったく伝わらなかった。どうしてそんなことを急に言うのかと尋ねるばかりだった。馬耳東風。まるでわたしが気でも狂ったかのように、暴れ馬をなだめるように優しく「何かあったの? 大丈夫?」と尋ねるばかりだった。そんな言葉をかけられると益々わたしがバカみたいに思えてヒートアップしてしまい、わたしはこんな結婚は間違っていると言い張ったけれど、イシ君は間違っていないよと言うばかりだ。
 別れ話をしたら普通の男性はおとなしく身を引くものじゃないの? それとも怒り狂って暴言を吐くとか、そういう態度を想像していた。けれどイシ君はわたしの想像の斜め上をいく態度で、無知な客相手にビジネスの交渉をするときのような手腕を発揮していた。
「リリィ、今日はきっと疲れているんだね。来週が無理なら再来週でもいいんだよ。うちの母はおっとりしたタイプだから、多少待たされても怒らないから」
 待たされても、なんて言われたら逆に待たせられないじゃないの。
 結婚の話が出てからというもの、まるでわたしとお母様が契約当事者で、イシ君はその仲介業者みたいな立ち位置だ。それとも、わたしは使者というか緩衝材みたいなもので、本丸(ほんまる)はうちの会社かしら? そうに決まっている。イシ君の会社とわたしの家の会社の契約締結が目標で、わたしたちはその駒にすぎないのだから。わたしたちの親が駒を動かし、わたしたちは動かされるだけの駒だという気がする。そもそも、そのために生み落とされて育てられたのかもしれないけれど、わたしには意志があって、夢がある。
 その時、ふと思った。
 イシ君は生まれながらにして家のために結婚する人生を決められていたのだから、わたしとは結婚に対する考え方がまったく違っていたのだ。イシ君の中では、イシ君は会社を継ぐために生まれてきたから、幼い頃からのすべての行動は会社のため家のためというのがデフォルトで、わたしがイシ君と付き合ったいたことも会社のため家のためだからいずれは結婚することが目的だったし、そうじゃない理由でわたしがイシ君と付き合っていたなんて思いもつかないのだ。そこには大きな価値観の齟齬があった。
 そして、結婚観の違いは人生観の違いでもあり、日常のすべての価値観が微妙にずれていたことにも気づかされた。いままでの会話の中でときどき感じていた小さな違和感はすべて大きな価値観の相違につながっていた。
「ぼくたちが結婚すればリリィの会社の取引関係を使ってぼくの会社の取引が増えるから、日本の油田産業も栄えるし、国のためにもなるんだ。デメリットはないと思うよ」
 わたしが結婚観を伝えようとすればするほどに、イシ君はわたしたちの結婚のより生じる金銭的経済的メリットを語った。
 けれどそれはわたしの心には一ミリも響かなかった。
 なぜならわたしはその対極にあるものを求めていたからだ。金銭的価値のない、目に見えない「ときめき」を。恋心による胸の鼓動を。日々の感動を。
 そういうものを、わたしは、人生の目標としている。
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登場人物紹介

ウルフ 

男。大学三年生。リリィがひと目ぼれした相手。

リリィ 

女。大学四年生。このお話の主人公。

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