第10話 恋されたくなければ恋のルールの逆をしましょう
文字数 2,684文字
二月は人肌が恋しくなる季節。
だから、そんな季節に若者はちょっと羽目を外したイベントしがたるものだ。
ここは南青山の雑居ビルの地下にあるクラブ。
大音量のクラブミュージック。踊る学生たちでごった返している。
暗闇に七色のまぶしいライトが降り注ぎ、ちかちかと目を刺激する。
「ねえ!サチ。わたし、これ一杯だけ飲んだら帰るから!」
「え? 来たばっかりなのに、なに言ってるの!? せめてケイ君が来るまで一緒にいてよ~。お願い~」
サチに誘われてちょっと覗いてみるだけのつもりで来たのだけど、わたしには場違いだった。音楽に合わせて踊るとしたら、わたしの場合はクラシック・バレエかラジオ体操しかできない。
それに、ファッションも全然浮いている。真冬なのにノースリーブのドレスで髪を乱して踊っている女性たちと比べて、わたしはカルバンクラインのリブニットにフレアスカートというダサすぎる格好だ。
「ケイ君からあと少しで着くってメールが来てるからさ、あとちょっとだけ我慢して!」
「わかったわかった。じゃあ、ケイ君が来るまでいてあげる!」
「ありがとうー!明日のランチおごるから!」
ケイ君が来たとしても、こんな人込みの中で見つけるのは大変だろう。暗すぎて人の顔の判別がつかない。
そんなことを思い、周囲を見回しながら、手もち無沙汰を紛らわすためのカクテルに口をつけていた。
もともとアルコールが苦手なのに、カクテルを三杯飲んでしまった頃、
「リリィ!」
耳元で男性の声がして、驚いて振り返る。
真っ白い歯並びの良い笑顔のゴウ君が立っていた。
マスタード色のセーターが目立っている。
「ゴウ君、来てたんだ」
「うん。地元の友達に誘われてね。まさかリリィに会えるとは思っていなかった。来てよかった」
ゴウ君がそう言って笑うから、わたしも少し笑ってみせた。
「どう? 楽しんでる?」
「ううん、なんか騒がしすぎて……」
「ぼくも。じつはこういうところはちょっと苦手なんだ。あっちの人がいないほうに行かない?」
ゴウ君が指さしたほうを見ると、クラブの奥のすみに小さなカウンターがあった。
「え、でもサチが……」
「いいよいいよ、わたし入口のほうでケイ君を探してくるから、またあとで!」
サチはそう言ってウインクして、人込みのなかに姿を消してしまった。サチのバカ。
わたしは渋々ゴウ君と連れ立って、カウンターに腰をかけた。
ゴウ君は、近くの棚から赤とオレンジ色のグラデーションの鮮やかな新しいカクテルをもってきて、わたしに手渡した。また手もち無沙汰を紛らわすために一口だけ飲んで、手の中でくるくると回す。いままでのカクテルよりも強い熱が喉の奥から胃に落ちていく。
「卒業式が近づいてるね。なんか、寂しい気がするよな?」
「そうね。ゴウ君はもう就職決まってるんでしょ?」
「うん。親父の会社にね。いずれは社長になるんだろうけど、とりあえず営業担当だってさ。リリィは?」
「わたしも、父親の会社にね。いずれは社長になるんだろうけど、とりあえず広報担当だってさ」
ゴウ君の口調をまねて言って、ふたりで顔を見合わせて笑った。
そうだ。わたしたちは似ているんだと思う。育ちも、社会的な地位も、生活レベルも、同じ世界の住人。
母が「いい人を見つけたわね」と言って喜びそうな相手だと思う。そして、きっと、ゴウ君のご両親もわたしの家柄や経歴だけをみたらそう言うのだろう。
だからゴウ君はわたしに執着するのだろうか。
カスミソウの定期便はまだ毎週金曜日に届いていて、ダイニングテーブルにカスミソウが姿が定着しつつある。
「リリィ、モネの件、考えてくれた?」
ゴウ君がそう言って、わたしの目をみた。
前回、前々回に大学構内でみた目よりも真剣な光を帯びている。その目は、モネを口実にしたモネよりも大きな件の誘いなのだと言っている。
「おれたち、合うと思うよ」
「……で、でも」
手の中のグラスに口づけた。ごくり、ごくり、と二口飲み干す。
けれど、ゴウ君の熱い視線はわたしの目に注がれたままだ。
どうしよう。
なんていえば切り抜けられるのだろう。こういう場合のルールズを考えておくべきだった。溺愛されるルールではなくて、恋をあきらめてくれるルールを。
そう思ってから、思いついた。
恋をあきらめてもらうには、恋されるルールの逆をすればいいだけなんだ。つまり、わたしのほうからゴウ君にたいして露骨に興味を示してみたり、自分のことをさらけ出して喋りまくったり、デートに誘ったり口説いたりすればいいんだ。そうすればゴウ君の恋心は萎えてくれるはず……
一瞬そう思ったけれど、そもそもゴウ君はわたしに恋をしているわけではないような気がした。性的な引力をまったく感じないし。あくまでも、家業ための花嫁候補のような気がする。名家の長男は花嫁選びもひとつのビジネスなのだ。とすると、恋の法則なんて通用しないのかもしれない。
注がれるゴウ君の視線を避けるために、思わずまたカクテルグラスに口をつけようとした瞬間、背後から大きな手が伸びてきて、グラスを取り上げた。
「飲み過ぎだ」
「え?」
低い声に驚いて振り向くと、大きな影がわたしの視界を覆っていた。
その圧倒的な存在感のある影を見上げると、
ウルフ……!!
少し乱れた黒い髪。まっすぐな鼻梁に完璧な形の頬骨と浅黒くて滑らかな肌。
真っ黒い瞳が暗闇の中で光を放っている。
グレーのシャツの襟のボタンが三つ開けられて、腕まくりした袖からは筋肉質な腕が出ている。
「こいつ、借りるよ」
わたしと一緒に驚いて振り向いたゴウ君に向かって、ウルフがそう尋ねた。
「借りるって、リリィは物じゃないんだよ。ね?リリィ」
ゴウ君が眉をひそめて言う。
けれど、ウルフはもうゴウ君をみていない。わたしの腕をつかんで立ち上がらせた。
「来いよ。ちょっと用事があるんだ」
「え、そ、そうなの?」
「ああ。急用」
そう言ってわたしを引っ張っていく。
わたしは肩越しに振り向いて、
「ゴウ君、ごめん。つづきはまた今度、大学で」と言う。
「しょうがないな。また今度ね」
ゴウ君はかすかに首をふってから、そう言った。
ウルフはぐいぐいとわたしを引っ張って、ひとごみを縫って歩いた。
わたしをつかむウルフのすこし強引な手がセーター越しにも熱くて、心地よくて、でもすこし怖くて。
足に力が入らないのはアルコールのせいなのか、恋のときめきのせいなのか、どっちでもいいけど。
ウルフに先導されてクラブのいちばん奥にある小さな扉から出ると、そこは小さな倉庫のようだった。
だから、そんな季節に若者はちょっと羽目を外したイベントしがたるものだ。
ここは南青山の雑居ビルの地下にあるクラブ。
大音量のクラブミュージック。踊る学生たちでごった返している。
暗闇に七色のまぶしいライトが降り注ぎ、ちかちかと目を刺激する。
「ねえ!サチ。わたし、これ一杯だけ飲んだら帰るから!」
「え? 来たばっかりなのに、なに言ってるの!? せめてケイ君が来るまで一緒にいてよ~。お願い~」
サチに誘われてちょっと覗いてみるだけのつもりで来たのだけど、わたしには場違いだった。音楽に合わせて踊るとしたら、わたしの場合はクラシック・バレエかラジオ体操しかできない。
それに、ファッションも全然浮いている。真冬なのにノースリーブのドレスで髪を乱して踊っている女性たちと比べて、わたしはカルバンクラインのリブニットにフレアスカートというダサすぎる格好だ。
「ケイ君からあと少しで着くってメールが来てるからさ、あとちょっとだけ我慢して!」
「わかったわかった。じゃあ、ケイ君が来るまでいてあげる!」
「ありがとうー!明日のランチおごるから!」
ケイ君が来たとしても、こんな人込みの中で見つけるのは大変だろう。暗すぎて人の顔の判別がつかない。
そんなことを思い、周囲を見回しながら、手もち無沙汰を紛らわすためのカクテルに口をつけていた。
もともとアルコールが苦手なのに、カクテルを三杯飲んでしまった頃、
「リリィ!」
耳元で男性の声がして、驚いて振り返る。
真っ白い歯並びの良い笑顔のゴウ君が立っていた。
マスタード色のセーターが目立っている。
「ゴウ君、来てたんだ」
「うん。地元の友達に誘われてね。まさかリリィに会えるとは思っていなかった。来てよかった」
ゴウ君がそう言って笑うから、わたしも少し笑ってみせた。
「どう? 楽しんでる?」
「ううん、なんか騒がしすぎて……」
「ぼくも。じつはこういうところはちょっと苦手なんだ。あっちの人がいないほうに行かない?」
ゴウ君が指さしたほうを見ると、クラブの奥のすみに小さなカウンターがあった。
「え、でもサチが……」
「いいよいいよ、わたし入口のほうでケイ君を探してくるから、またあとで!」
サチはそう言ってウインクして、人込みのなかに姿を消してしまった。サチのバカ。
わたしは渋々ゴウ君と連れ立って、カウンターに腰をかけた。
ゴウ君は、近くの棚から赤とオレンジ色のグラデーションの鮮やかな新しいカクテルをもってきて、わたしに手渡した。また手もち無沙汰を紛らわすために一口だけ飲んで、手の中でくるくると回す。いままでのカクテルよりも強い熱が喉の奥から胃に落ちていく。
「卒業式が近づいてるね。なんか、寂しい気がするよな?」
「そうね。ゴウ君はもう就職決まってるんでしょ?」
「うん。親父の会社にね。いずれは社長になるんだろうけど、とりあえず営業担当だってさ。リリィは?」
「わたしも、父親の会社にね。いずれは社長になるんだろうけど、とりあえず広報担当だってさ」
ゴウ君の口調をまねて言って、ふたりで顔を見合わせて笑った。
そうだ。わたしたちは似ているんだと思う。育ちも、社会的な地位も、生活レベルも、同じ世界の住人。
母が「いい人を見つけたわね」と言って喜びそうな相手だと思う。そして、きっと、ゴウ君のご両親もわたしの家柄や経歴だけをみたらそう言うのだろう。
だからゴウ君はわたしに執着するのだろうか。
カスミソウの定期便はまだ毎週金曜日に届いていて、ダイニングテーブルにカスミソウが姿が定着しつつある。
「リリィ、モネの件、考えてくれた?」
ゴウ君がそう言って、わたしの目をみた。
前回、前々回に大学構内でみた目よりも真剣な光を帯びている。その目は、モネを口実にしたモネよりも大きな件の誘いなのだと言っている。
「おれたち、合うと思うよ」
「……で、でも」
手の中のグラスに口づけた。ごくり、ごくり、と二口飲み干す。
けれど、ゴウ君の熱い視線はわたしの目に注がれたままだ。
どうしよう。
なんていえば切り抜けられるのだろう。こういう場合のルールズを考えておくべきだった。溺愛されるルールではなくて、恋をあきらめてくれるルールを。
そう思ってから、思いついた。
恋をあきらめてもらうには、恋されるルールの逆をすればいいだけなんだ。つまり、わたしのほうからゴウ君にたいして露骨に興味を示してみたり、自分のことをさらけ出して喋りまくったり、デートに誘ったり口説いたりすればいいんだ。そうすればゴウ君の恋心は萎えてくれるはず……
一瞬そう思ったけれど、そもそもゴウ君はわたしに恋をしているわけではないような気がした。性的な引力をまったく感じないし。あくまでも、家業ための花嫁候補のような気がする。名家の長男は花嫁選びもひとつのビジネスなのだ。とすると、恋の法則なんて通用しないのかもしれない。
注がれるゴウ君の視線を避けるために、思わずまたカクテルグラスに口をつけようとした瞬間、背後から大きな手が伸びてきて、グラスを取り上げた。
「飲み過ぎだ」
「え?」
低い声に驚いて振り向くと、大きな影がわたしの視界を覆っていた。
その圧倒的な存在感のある影を見上げると、
ウルフ……!!
少し乱れた黒い髪。まっすぐな鼻梁に完璧な形の頬骨と浅黒くて滑らかな肌。
真っ黒い瞳が暗闇の中で光を放っている。
グレーのシャツの襟のボタンが三つ開けられて、腕まくりした袖からは筋肉質な腕が出ている。
「こいつ、借りるよ」
わたしと一緒に驚いて振り向いたゴウ君に向かって、ウルフがそう尋ねた。
「借りるって、リリィは物じゃないんだよ。ね?リリィ」
ゴウ君が眉をひそめて言う。
けれど、ウルフはもうゴウ君をみていない。わたしの腕をつかんで立ち上がらせた。
「来いよ。ちょっと用事があるんだ」
「え、そ、そうなの?」
「ああ。急用」
そう言ってわたしを引っ張っていく。
わたしは肩越しに振り向いて、
「ゴウ君、ごめん。つづきはまた今度、大学で」と言う。
「しょうがないな。また今度ね」
ゴウ君はかすかに首をふってから、そう言った。
ウルフはぐいぐいとわたしを引っ張って、ひとごみを縫って歩いた。
わたしをつかむウルフのすこし強引な手がセーター越しにも熱くて、心地よくて、でもすこし怖くて。
足に力が入らないのはアルコールのせいなのか、恋のときめきのせいなのか、どっちでもいいけど。
ウルフに先導されてクラブのいちばん奥にある小さな扉から出ると、そこは小さな倉庫のようだった。