第42話 愛されるルールの実践は簡単なのに難しいから事前の対策が大切

文字数 1,453文字

 ウルフがこちらを見上げていた。
 真っ暗なマンションのエントランスの外で、街灯に照らされたウルフはわたしと目が合うと何かを訴えかけるような目で見つめてきた。
 わたしは慌ててカーテンを閉め、ウルフに向けた。
 遮光性のカーテンと言えども、外からみれば明るい窓にわたしの姿の影が浮き彫りになっているだろう。そう思って、わたしはキッチンの方に走って逃げ、コンロの下にうずくまる。
 なぜ。なぜウルフがここにいるの?
 いつから? 丸の内から帰宅するわたしの後をつけてきたのだろうか?
 それとも、わたしがシャワーを浴びていたころに来たの?
 いったい何の用事で?
 
 頭の中を竹林のようにみっちりと疑問符が埋め尽くした。
 見上げると、ダイニングテーブルの上からはカスミソウの白い花々がこちらを見ている。ウルフが毎日のように贈ってくるカスミソウだ。これはどういう意味があるのだろう。
 あの夜。勢いにまかせて重なったわたしたちの体の熱さと、行為が終わったあとの悔しそうなウルフの顔を思い出した。いや、思い出したのではない。あれからずっと脳裏の壁紙として定着してしまった画像だ。
 ウルフはきっと謝りたいのだろう。ああ見えて彼は律儀で正義感が強いから、セフレ扱いしたことを悪いと思っているに違いない。だから謝って心の荷を下ろしてすっきりしたいのだろう。そのために来たのだろう。それならば、わざわざここまで来なくてもメールでいいじゃないの?
 テーブルの上にあるスマホを手に取って、わたしはメールアプリを確認した。
 メールは一件も届いていなかった。
 そこで気づいた。わたしはウルフのメアドも電話番号も着信拒否設定にしたのだった。
 ウルフからわたしに連絡を取る手段はないはずだ。だからここまで来たのだろう。
 でも、彼は何と言うつもりなんだろう?
 どんな言葉を選んだとしても、彼はわたしを傷つけることしかできないのだから、またわたしの心は傷つくのだろうと思うとすでにもう心が切り刻まれたような痛みを感じた。
 おれは女を愛せないと言っていたウルフだから、おまえとヤッたけれど愛していないし付き合うつもりもないからな、とでも言うつもりだろうか。
 それとも、おれも愛に気づいたんだ、愛してるよリリィと言うつもりだろうか……?
 わたしは首を振った。それはない。絶対にない。
 ああ。ウルフと関わると傷ついてばかりだ。
 心はガラス細工で、一度壊れたら元には戻らない。心は使い捨てできるものではない。一生にひとつだけの大切な宝物なのだ。だから、傷つかないように、自分で守らなくてはならない。恋愛で傷つかない方法を学ばなくてはならない。だから、わたしは愛されるルールを作ってきたのだ。そして、そのルールズの中でももっとも違反してはいけないルールは、愛のない性行為だった。愛のない行為の結末は、みじめなきもちが残るだけで、そのルールの正当性をわたしは身をもって確信したのだった。
 
 カーテンの向こうに目をやり、立ち上がろうとしたとき、先日手帳のトップページに書いたルールを思い出す。
 『もし彼に偶然会っても、彼を無視すること』
 ウルフを無視しなくてはならない。無視よ。無視。絶対に無視するの。
 わたしは心の中で唱えながら部屋の明かりを消してベッドにもぐりこんで目を閉じた。
 この日、わたしは自分で作ったルールをやっと守ることができた。ウルフを無視することができた。
 けれどそれは、ウルフのメアドも電話番号も消去していたおかげでかろうじて無視できたに過ぎない。

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登場人物紹介

ウルフ 

男。大学三年生。リリィがひと目ぼれした相手。

リリィ 

女。大学四年生。このお話の主人公。

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