第26話 恋されて大切にされたければ、こちらから襲ってはいけません。

文字数 4,341文字

 目を開けると、視界いっぱいに真っ白い天井。
 薄暗い中にクリスタルのシャンデリアが朝露の雫のようにきらきらと輝いている。
 少し眠ってしまったのだろう。あまりにも寝心地の良いベッドのせいだ。ムスクのようなウルフの匂いがするウルフのベッドは羽のようにやわらかだ。まるでウルフの肌に包み込まれているような気分になる。ずっと好きだった、そして、いまでも大好きな男の匂い。なぜか懐かしい匂い。
 恋は五感による本能で落ちるものだと思う。好きな外見。好きな声。好きな肌感と、好きな匂い。それらを総動員して一瞬で本能的に脳が判断して、人は恋に落ちるのだと思う。女は恋に落ちたあとで気づくのだ。ああ。この男のすべてが好き…と。
 そして、好きなのに報われない恋に苦しむのだ。
「……っ」
 飛び起きると、お尻に鈍い痛みが走った。
 打撲だと思うけれど、状態を見たい。赤く腫れているかもしれないし、青あざが出来てるかもしれない。
 わたしはベッドから降りて、扉を開けて廊下に出た。
 深い朱色の絨毯で覆われた廊下が奥まで続いていて、真鍮のノブがついた扉がいくつか並んでいる。
「あ」
 そのひとつの扉が開いて、ウルフが出てきた。扉の向こうはバスルームなのだろう。シャワーを浴びたばかりの髪は濡れていて、白シャツを羽織り、白いタオルを首にかけている。下に履いているのは、紺色のチェック柄のブリーフだ。
「どうした?大丈夫か?」
「うん。ちょっと」
「ああ、クソか? トイレはこっちだ」
 ウルフは扉の向こうを指さした。白シャツはボタンが留められておらず、はだけた胸元からは逞しい胸板の筋肉がみえる。膨らんだ筋肉を覆うつややかな肌はすこし日焼けして黄金色に輝いている。
「ち、ちがうわよ。トイレじゃなくて、ちょっと鏡がみたいなと思って。大きめの鏡ってある?」
「鏡か。じゃあこっちだ」
 ウルフが別の扉を開けると、そこにもまたひとつ大きな部屋があった。
 白い壁。白いシーツで整えられた大きなダブルベッドと、壁際にはヨーロッパ調の大きな鏡台があり、その隣にはエミール・ガレの作品のようなアール・ヌーヴォー風のスタンドランプが飾られている。
「すごい部屋ね。お城みたい。使ってないのがもったいないわ」
「自由に使ってくれ」
「ありがとう」
 大きな鏡の前に立つと、後ろから近づいてきたウルフと鏡越しに目が合った。
 真っ黒い瞳。
 ミントとメロンの混じったようなボディーソープの香りが漂う。
「な、なに?」
「みてやろうか?」
「え」
「尻、みるんだろ」
「ば、ばかじゃないの。ウルフに見せるわけないでしょ!あっちに行っててよ。変態」
 ウルフがおかしそうに眉をあげる。
「心配してるだけだ。血が出てるかもしれないだろ? それに、女の尻くらい見慣れてるよ」
「いいから、あっちに行ってて!ドアの向こうに!」
 ウルフが喉の奥でくく、と笑ってから、渋々と部屋から出ていく。
 扉が閉まったことを見届けてから、わたしは鏡に背を向けて、ネイビー色のワンピースの裾をまくり上げ、綿のショーツを下して鏡に映してみた。お尻は少し赤くなっているだけだった。明日には青あざが出来るだろうけれど、今のところ外傷はない。触ってみると、鈍い痛みはあるが、骨には異常なさそうだ。
 「いいか?」
 扉の向こうから声がするから、慌ててショーツをあげてスカートを下す。
 すると、ウルフが部屋に入ってきた。
「どうだった? 大丈夫か?」
「うん。ぜんぜん大丈夫だと思う」
「怪我は?」
「打っただけだから、見た目には何もなかったわ。痛みもだいぶおさまってきたし、ただの打撲だけだと思う」
 ウルフが太い眉をしかめる。濡れた髪は黒々と光り、額に落ちる数本の前髪が妙に色っぽい。「犯人がわかったら殺してやる」と低い声で言う。少し低い声で言うだけでも威厳のある風貌は、そのへんのヤクザよりも凄みがある。
「ちょっ…物騒なこと言わないでよね。犯人はわからないわよ」
 わたしの頭の中では犯人の目星はついていた。あの珍しい色の目は、カーターだと思う。
 けれど、はっきりしていないし、ウルフが怒ると何をするかわからないから、黙っておくことにした。
「顔は見なかったのか?」
「うん。暗かったし、ただの痴漢かも」
「あんな場所で痴漢はないだろ。ここは丸の内だぜ?」
「そうよね。痴漢じゃないわよね」 
 ベッドに腰を下ろすと、やわらかく沈んで思わず寝そべりたくなる。
「ここ、全部で何部屋あるの? シモンズのベッド、いくつあるの?」
「5部屋かな」
「ひとりで住んでるなんて、もったいないわね。っていうか、ウルフって彼女いるの?」
「さあね」
 ウルフが悪戯な笑みを浮かべた。
「モテモテらしいじゃない? ファンもいるとか」
「ファン?」
「サチに聞いたの。ファンレターが殺到してるとか、雑誌で読んだって言ってたわ。ファンの子たちをここに何人も連れ込めそうね」
「そうだな。同時に5人とできるな」
 ウルフがそう言っておかしそうに笑った。
「あいかわらず、ひどい男よね。女は玩具じゃないのよ」
 わたしがそう言うと、ウルフは急に真面目な顔になった。
「女を玩具にするような男は、今夜の男みたいなヤツだろ? 狙われる理由、思い当たることはないのか? 会社のことなんかで」
 そう言ってウルフはわたしの隣に腰をかけた。シモンズの柔らかなベッドが沈んで揺れる。
 隣にウルフがいる。同じベッドに並んで座っている。チェック柄のトランクスの裾から伸びる逞しい太ももと頑強で大きな膝がウルフの男らしさを表していた。もしここで押さえつけられたら身動きできないだろう。カーターよりも数倍以上の肉体的な強さを感じ、心臓が跳ねる。
 わたしは床に視線を落とした。
「いままで会社のことで狙われたことはないの。だから、今回も会社は関係ないような気がする。けど……イシ君のことを言ってた。『イシと別れろ』って」
「『イシ君』?」
「わたしが……付き合ってるような感じになってる人。もうすぐ別れるつもりだけど」
 そう言うと、ウルフは驚いたようにわたしの横顔を見つめてきた。
「彼氏か」
「ち、違うの。付き合ってるような感じになってる人、よ」
「まどろっこしい言い方だな。どう違うんだ」
「全然ちがうの。イシ君とは、その……」
 どうやって説明すればいいのかわからない。けれど、『付き合っている』というフレーズはイシ君とわたしの関係には合わないと思う。わたしとイシ君は恋人ではないのだ。恋していないから、恋人ではない。けれど週末に習慣的にデートをする間柄はやはり恋人なのだろうか。体の関係もないのに、そもそもデートと言えるのだろうか。
 そもそも、恋人とか付き合っているかどうかの判断基準は主観的なものなのだ。恋人と友人の境目も、友人と知人の境目も、主観によるものだ。じゃあ、わたしとイシ君は友人なの? 違うと思う。じゃあ知人? 
 収拾がつかなくなりそうだと思ったとき、ウルフがわたしの思考を遮った。
「『イシ』って、あの『イシ』? あの石油会社の跡取りの?」
「え、うん、そう。跡取りってことになってるみたい」
「なるほどね。あいつか」
 ウルフは何かを悟ったかのように大きくうなづいた。
「どういうこと? イシ君のこと、知ってるの?」
「あいつはおれらの業界でもちょっと有名だ。ちらほら噂を聞いたことがある」
 そう言ってウルフが眉をしかめた。その表情から、良い噂ではないことは明らかだ。
「評判、悪いの?」
「いや、悪いっていうほどじゃないけど。あいつの仕事の仕方は、おれもちょっと気に入らない。それに最近は継承権争いで汚ねえことやってるって聞いたことはある」
「継承権争い……」
 母が言ってたことを思い出した。週刊誌にも載るほどのことだから、きっと本当に噂になっているのだろう。
「儲かればいいっていう発想なんだな、やつは。だが……おまえの婚約者のことを悪く言うのはよくないよな」
「婚約者じゃないわ! 断るつもりだもん」
 そう言うと、ウルフが目を丸くした。
「でも付き合ってるんだろ?」
「付き合ってるっていうのかどうかもわからない。そういう関係じゃないの」
「ふーん、やってないのか」
「な、なんで、そういう露骨な聞き方するの?!」
「ストレートでいいだろ? じゃあ、言い方を変えよう。イシのことが好きじゃないのか?」
「好きとかそういうのは関係ないの。きもちの問題じゃないのよ。家同士の問題なの」
「つまり好きじゃないのか?」
「好きとか嫌いとか、そういうことじゃないの」
「やりたくない相手と結婚するのか? もしかして、おまえらは不感症なのか」
「不感症って…?」
「金持ちのことはよくわからんな」
 ウルフはバカにしたように鼻を鳴らして、立ち上がった。そして、部屋から出ていこうとする。白いシャツで覆われた広い背中は大きな悲しみを背負っている。生まれながらにして悲しい宿命を負ったかのようなその姿が、過去のウルフの姿と重なり、学生時代のわたしたちの別れを思い出させ、やり残した宿題を突き付けられたかのようにわたしの胸の奥に火をつけた。
 そうだ。この気持ち。この気持ちこそ、大学生のときからずっと胸の奥で燻っていた気持ちの中核だ。
「すぐにそうやって、わたしたちとは距離を取ろうとするのね!」
 わたしも立ち上がってウルフの腕をつかんだ。白いシャツ越しに逞しくて硬い腕の筋肉を感じる。
「なんだよ」ウルフが足を止めて振り返る。
「そうやって逃げようとするのね。いまではウルフだってお金もちじゃない?! わたしと郷里を取ろうとしたって無駄よ」
「いや、おれは金持ちじゃない。いくら稼いでも、おまえらみたいな不感症にはなるつもりないからな」
「不感症はウルフのほうでしょ」
「いや、おれは不感症じゃない」
「じゃあわかってるの? 自分のこと」
「ああ。わかってるさ、最初から。おまえのことも」
「あたしだって、不感症じゃないわ。自分が誰のことを好きなのか、わかってるもの」
「そうなのか」
 ウルフが目を細める。まるで勝負を挑むかのように、揶揄するかのように、わたしを見定める。その態度がさらにわたしの火に油となって注がれた。
「ええ。はっきりと。わたしが好きなのは、ウルフよ」
 そう言い切ると、胸の奥に詰まっていたものが勢いよく取れて、扉が開いた感じがした。
 真っ黒い瞳とまっすぐに目があった途端、わたしたちは磁石のように引き寄せられた。
 熱い液体に飲み込まれ、重力を感じなくなり、頭の芯が溶けていく。
 知らないうちに、わたしたちは唇を合わせていた。
 どちらともなく。強く。熱く。
 互いの体に腕を回して。
 口内の粘膜をむさぼり合う。
 蔦のように絡み合い、そのままベッドに倒れ込んだ。
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登場人物紹介

ウルフ 

男。大学三年生。リリィがひと目ぼれした相手。

リリィ 

女。大学四年生。このお話の主人公。

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