第8話 恋されたければメールの返信を待たせなければいけません
文字数 4,719文字
今日はフランス語の試験。
早朝からスタバで勉強するために身支度を整え、玄関の扉を開けると、冷たい風とともに入ってきた粉雪が頬をかすめた。
雪、だ。今年初の雪。
そして、扉の下には新聞紙にくるまれたカスミソウの大きな花束が置かれていた。
ゴウ君……まだ、あきらめてないのね……。
わたしはため息をついて、リビングのテーブルに飾っていたカスミソウを新しいものに入れ替えた。
毎週金曜日の朝に新しいカスミソウが届くのだ。小さな白い花の上にはいつも朝露が残っている。送り主の記載はないけれど、きっとゴウ君がお手伝いさんか誰かに配達させているのだろう。
ゴウ君とは年が明けてから二回学食とカフェテリアで顔を合わせた。そのたびに、「どう? モネ、行けそう?」と尋ねられたから、「ちょっといま忙しくて……」と言って断った。
忙しいというのは口実で、行きたくないのだという意味なのだけど、賢いゴウ君にそれが伝わっていないはずがない。たぶん、金持ち一家花嫁候補リストの一番上にわたしが繰り上がっているんだろう。二番手や三番手の女性とつき合いながら並行して一番手にも声をかえているに過ぎないのだと思う。
この大学に入ってもうすぐ四年になる。裕福な育ちの男子たちの思考回路はだいたいそういうものなのだとわたしは学んでいた。
そして、わたしは、そういう彼らに嫌気がさしていた。
だから、ウルフに惹かれたのだろうか。いや、ウルフに惹かれたから、彼らに嫌気がさすようになってしまったのかもしれない。
裕福ではないウルフにはどんな生い立ちがあるの……?
自分の生活費を自分で稼いでいるのはなぜ……?
ご両親はなにをしているの……?
兄弟はいないの?
どうしてステディな恋人をつくらないの……?
ウルフに尋ねたいことは山ほどある。
けれど、わたしは『恋されて溺愛されたければ、こちらから連絡してはダメ』というルールを破るつもりはなかった。
溺愛されなければ、意味がないんだ。
大学の半数以上の女性のように、彼の使い捨てティッシュにはなりたくない。わたしの恋はそんな軽いものじゃないんだ。
そう思って、わたしは手帳をベッドに寝そべって手帳を開いた。
窓の外では冬の夜空にボタン雪が舞っている。早朝に降り始めた今年初の雪は昼間には雨になり、夜になって綿飴みたいなボタン雪に姿を変えていた。ふわり、ふわりと空を舞う。
昨夜からお花畑に染まったわたしの脳みそは、まだキラキラと輝いている。
ウルフとの楽しかった会話が思い出される。
もっと話したい。もっとウルフを知りたいの。そして、もっとわたしを知ってほしいの。そんな浅ましいきもちが湧き上がってきた。
典型的な恋愛感情だ。自分本位な欲望にすぎない。
これを彼にぶつけたら、うまくいく恋も破滅してしまうのは明らかだ。
だから、わたしは 『溺愛されたければ、こちらからは連絡してはダメ』というルールを守る。絶対に守る。そう心のなかで唱えていると、
ピロン……。
スマホがメールを受信した音がした。
タップして画面をひらいてみる。
(-''-) :ジャックロンドンのおすすめ、なんて本だっけ
ウルフだ………!!
メールアドレスは教えていなかったけど、電話番号を使ってショートメールで送ってきたのだ。
思わず胸が弾んだ勢いで、わたしはマットレスの上に起き上がった。
そして、返信しようと思った瞬間に、手にしていた手帳に意識が向いた。
たしか、『すぐに返信してはいけない』というルールを作っていたのだ。
簡単に手に入るものは、簡単に捨てられる。なぜなら、努力をすることで対象の心理的価値があがるから。
だから、女性は簡単に男性の手に入ってはいけない。すこし待たせて、じらして、自分の価値を高めると、のちのち男に大切にされることになるという法則がこの世には存在する。
その法則の応用として、男性からのメールに対して返信するときは、少し待たせたほうがいい。
どうして返事が来ないのだろう、おれのこと嫌いになったのかな、なにしてるんだろう、どこにいるんだろう、なんでこんなにも彼女のことが気になるんだろう、などなど、彼はさまざまな感情に襲われて、それが恋の芽を育てる肥料になるからだ。
だから、彼を恋に落としたければ、メールをすぐに返信してはいけない。
わたしは手帳をベッドに置いた。
時計をみると、11時10分。
いまから三十分ほどの間、メールの返信をしないようにしなくっちゃ。
ベッドから降りて、ドレッサーの上からミュウミュウのオード・トワレを手に取って、シャワールームに入った。
きっちりと三十分後。
ラベンダーとラズベリーの爽やかな香りに包まれて、タオル地のナイトガウンを羽織ってから、わたしはドレッサーのチェアに腰かけて、スマホを手に取った。
そして、ウルフのショートメールに返信する。
内容は、シンプルに、短くする。
会話や電話と同じく、溺愛されたければ、感情をさらけ出してはいけないのだ。
リリィ:マーティン・イーデン
送信ボタンを押して、画面をみつめた。
もう寝たかしら。それとも、ウルフも返信を焦らしているのかしら。
その夜、ウルフからの返信はなかった。
◇
父は仕事の関係で一年の大半を欧米の別邸で過ごしている。
だから、東京の実家で食事をするときは、ほとんどいつも、ひとりっ子のわたしと母のふたりきりだった。ふたりきりだと寂しいでしょ、と言われることが多いけれど、そんなことはない。女ふたりきりのほうが、会話は弾むし心の距離が近くなるために濃密な世界になる。
大学に入学して一人暮らしを始めてからも、月に一度、第一土曜日だけ母と夕食を一緒にするのが慣例となっている。今夜はその日だ。
わたしと母は近況を伝え合った。わたしは主に大学の授業のことを話し、母は近々開く個展の話をした。なんでも話せる仲なのだけど、ウルフの話はなぜか母には話したことがなかった。
大皿に乗ったエビチリの山を眺めていたら、胸の奥にかすかに隙間風を感じた。
「いつも残しちゃって、もったいないわね」
「あら、リリィがそんなことを言うなんて、なにかあったの? 」
「べつに……」
母もわたしも細身の少食のため、わたしたちは家で食べるときも外食するときも料理の半分以上を残す。それが普通なのだと思って育った。
家の家政婦さんはテーブルに乗りきらないほど沢山の種類の料理を作ってくれたから、その中から気分で食べられそうなものだけをつまむ。
外食ではお店側はお客の目を満足させるためにわざと食べきれない分量の食事を出すものだから、おなかいっぱいで満足したという証拠に残す。
それが食事のマナーなのだと思っていた。
だから、テレビドラマで「残さず全部食べなさい」というセリフを聞くたびに、虐待の一種だと思ってしまっていた。
「だだ、このエビ、高いんでしょう? 一匹が大きいから、こんなにも残しちゃうのって悪いなぁって思って」
「なに貧乏じみたことを言ってるの。お父さんの仕事の関係で、わたしたちはこのホテルの上顧客なの。もっと注文しなさい。残せばいいのよ。料理人の方々は、わたしたちが食べようが残そうが一緒なのよ。たくさん注文してたくさんお金を落とすことのほうが喜ばれるのよ」
「食糧難で飢えている子供が世界にはいっぱいいるのに、わたしたちの食べ残しはゴミ箱に行っちゃうのが残念だと思っただけよ」
「まあ、そうね。ただ、そういうことを考えると、きりがないものよ。それとも、卒業論文の課題なのかしら? 」
母はそう言って、眉をしかめた。眉間にかすかな皺が寄る。
母は昔から、わたしが発展途上国に興味をもつことを嫌った。わたしを裕福なお嬢様として育てたプライドがあるのだと思う。
下をみないで、上だけをみて生きなさい、というのが母の口癖だ。
「授業料も払えなくて、奨学金で入学した人もいるんだって、わたし最近知ったの。バイトで生活費をかせぎながら大学に通っている人とか」
「そういう人もいるそうね。でも、そういう人とは関わらないほうがいいわよ」
「え、どうして?」
「世界が違うの。あなたとは、生きる道が違うのよ」
母はそう言って、目をそらして口をつぐんだ。このお話はもう終わり、という意味だ。
わたしは、食べきれない料理をつつきながら、ウルフのことを考えた。
いまの瞬間、ホテル・オークラの最上階で高級料理を食べているわたしと、カフェの洗い場で皿の山を片付けているウルフ。ふたりの世界は違うだろうか。
でも、電話で話していたときにはたしかに、わたしたちの世界は同じだった。同じ世界で同じ感性を共有し合っていた気がした。それは幻想なの?
それに、そもそも、世界はひとつなんじゃない?
♢
その日の夜、またウルフからショートメールが入った。
(-''-):本、貸してくれ
わたしはきっちりと三十分待ってから、返信した。
一度実践したルールの実践は二度目はもっと楽にできるものだと気づいた。
リリィ:いいよ
(-''-) :明日、あのベンチで
リリィ:了解
マーティン・イーデンという本はハードカバーしか出版されていない。しかも、とても分厚いために四千円程の値段がついていた。ウルフには買えなかったのだろう。わたしは本棚にある二冊のうちの新しいほうを取り出し、ウルフにプレゼントしようかと思ったが、あわててその考えを取り消した。
恋の相手にプレゼントをしてはいけない。そのルールについてはまたいつか書くとしよう。
♢
翌日もわたしの世界はお花畑だった。バッグの中にはウルフに貸す本が入っている。ひさしぶりにウルフに会える。面と向かって話せる。そう思うだけで、雲の上を歩いているように浮ついてしまっていた。
「リリィ、なんかいいことあったんでしょ?」
ドイツ法の授業が終わった廊下で後ろから肩を叩かれて、振り返ったらサチがいたずらっぽい顔でそう言った。
「なんで?」
「だってリリィ、授業中ずっとにやにやしてたもん」
「え、やだ。見てたの?」
「見えたのよ。わたし、リリィの斜め後ろに座ってたから、ばっちり見えたの。あんなつまんない授業をにこにこして聞いてる生徒はリリィだけよ。先生に惚れられちゃったらどうすんの?」
わたしたちは笑った。ドイツ法の教授は大学一険しい顔をした堅物だという噂だ。あの堅物が生徒に惚れるなんて想像できない。
「で、なにがあったの?」
「なにもないわよ」
廊下の窓から西日が長く射しこみ、周囲をオレンジ色に染めていた。
この光景、まるで青春ものの映画みたい。
そんな風に感じてしまういまの自分の脳はやっぱりお花畑になっているのだろう。
「隠しても無駄だってば。話聞いてあげる。これから時間ある? オータニのカフェに行かない?」
そのとき、ワンピースのポケットの中でスマホが振動した。取り出してみると、
(-''-) :悪い。急用で、今日行けなくなった
落胆のきもちが湧き上がってくる。
わたしはすぐに返信した。
リリィ : 了解。また今度ね。
すぐに返信してしまったけれど、溺愛ルール的には、このケースではセーフだと思う。こちらの欲求にまかせた内容ではないから。こういう返信の場合は焦らす必要はない。
ウルフの『急用』の内容が気になったけれど、それを尋ねなかった自分を褒めてあげることにした。やけ食いじゃないけど、会えなくなった寂しさという心の隙間を大きなメロンパフェとモンブランのケーキでめいっぱい埋めた。
早朝からスタバで勉強するために身支度を整え、玄関の扉を開けると、冷たい風とともに入ってきた粉雪が頬をかすめた。
雪、だ。今年初の雪。
そして、扉の下には新聞紙にくるまれたカスミソウの大きな花束が置かれていた。
ゴウ君……まだ、あきらめてないのね……。
わたしはため息をついて、リビングのテーブルに飾っていたカスミソウを新しいものに入れ替えた。
毎週金曜日の朝に新しいカスミソウが届くのだ。小さな白い花の上にはいつも朝露が残っている。送り主の記載はないけれど、きっとゴウ君がお手伝いさんか誰かに配達させているのだろう。
ゴウ君とは年が明けてから二回学食とカフェテリアで顔を合わせた。そのたびに、「どう? モネ、行けそう?」と尋ねられたから、「ちょっといま忙しくて……」と言って断った。
忙しいというのは口実で、行きたくないのだという意味なのだけど、賢いゴウ君にそれが伝わっていないはずがない。たぶん、金持ち一家花嫁候補リストの一番上にわたしが繰り上がっているんだろう。二番手や三番手の女性とつき合いながら並行して一番手にも声をかえているに過ぎないのだと思う。
この大学に入ってもうすぐ四年になる。裕福な育ちの男子たちの思考回路はだいたいそういうものなのだとわたしは学んでいた。
そして、わたしは、そういう彼らに嫌気がさしていた。
だから、ウルフに惹かれたのだろうか。いや、ウルフに惹かれたから、彼らに嫌気がさすようになってしまったのかもしれない。
裕福ではないウルフにはどんな生い立ちがあるの……?
自分の生活費を自分で稼いでいるのはなぜ……?
ご両親はなにをしているの……?
兄弟はいないの?
どうしてステディな恋人をつくらないの……?
ウルフに尋ねたいことは山ほどある。
けれど、わたしは『恋されて溺愛されたければ、こちらから連絡してはダメ』というルールを破るつもりはなかった。
溺愛されなければ、意味がないんだ。
大学の半数以上の女性のように、彼の使い捨てティッシュにはなりたくない。わたしの恋はそんな軽いものじゃないんだ。
そう思って、わたしは手帳をベッドに寝そべって手帳を開いた。
窓の外では冬の夜空にボタン雪が舞っている。早朝に降り始めた今年初の雪は昼間には雨になり、夜になって綿飴みたいなボタン雪に姿を変えていた。ふわり、ふわりと空を舞う。
昨夜からお花畑に染まったわたしの脳みそは、まだキラキラと輝いている。
ウルフとの楽しかった会話が思い出される。
もっと話したい。もっとウルフを知りたいの。そして、もっとわたしを知ってほしいの。そんな浅ましいきもちが湧き上がってきた。
典型的な恋愛感情だ。自分本位な欲望にすぎない。
これを彼にぶつけたら、うまくいく恋も破滅してしまうのは明らかだ。
だから、わたしは 『溺愛されたければ、こちらからは連絡してはダメ』というルールを守る。絶対に守る。そう心のなかで唱えていると、
ピロン……。
スマホがメールを受信した音がした。
タップして画面をひらいてみる。
(-''-) :ジャックロンドンのおすすめ、なんて本だっけ
ウルフだ………!!
メールアドレスは教えていなかったけど、電話番号を使ってショートメールで送ってきたのだ。
思わず胸が弾んだ勢いで、わたしはマットレスの上に起き上がった。
そして、返信しようと思った瞬間に、手にしていた手帳に意識が向いた。
たしか、『すぐに返信してはいけない』というルールを作っていたのだ。
簡単に手に入るものは、簡単に捨てられる。なぜなら、努力をすることで対象の心理的価値があがるから。
だから、女性は簡単に男性の手に入ってはいけない。すこし待たせて、じらして、自分の価値を高めると、のちのち男に大切にされることになるという法則がこの世には存在する。
その法則の応用として、男性からのメールに対して返信するときは、少し待たせたほうがいい。
どうして返事が来ないのだろう、おれのこと嫌いになったのかな、なにしてるんだろう、どこにいるんだろう、なんでこんなにも彼女のことが気になるんだろう、などなど、彼はさまざまな感情に襲われて、それが恋の芽を育てる肥料になるからだ。
だから、彼を恋に落としたければ、メールをすぐに返信してはいけない。
わたしは手帳をベッドに置いた。
時計をみると、11時10分。
いまから三十分ほどの間、メールの返信をしないようにしなくっちゃ。
ベッドから降りて、ドレッサーの上からミュウミュウのオード・トワレを手に取って、シャワールームに入った。
きっちりと三十分後。
ラベンダーとラズベリーの爽やかな香りに包まれて、タオル地のナイトガウンを羽織ってから、わたしはドレッサーのチェアに腰かけて、スマホを手に取った。
そして、ウルフのショートメールに返信する。
内容は、シンプルに、短くする。
会話や電話と同じく、溺愛されたければ、感情をさらけ出してはいけないのだ。
リリィ:マーティン・イーデン
送信ボタンを押して、画面をみつめた。
もう寝たかしら。それとも、ウルフも返信を焦らしているのかしら。
その夜、ウルフからの返信はなかった。
◇
父は仕事の関係で一年の大半を欧米の別邸で過ごしている。
だから、東京の実家で食事をするときは、ほとんどいつも、ひとりっ子のわたしと母のふたりきりだった。ふたりきりだと寂しいでしょ、と言われることが多いけれど、そんなことはない。女ふたりきりのほうが、会話は弾むし心の距離が近くなるために濃密な世界になる。
大学に入学して一人暮らしを始めてからも、月に一度、第一土曜日だけ母と夕食を一緒にするのが慣例となっている。今夜はその日だ。
わたしと母は近況を伝え合った。わたしは主に大学の授業のことを話し、母は近々開く個展の話をした。なんでも話せる仲なのだけど、ウルフの話はなぜか母には話したことがなかった。
大皿に乗ったエビチリの山を眺めていたら、胸の奥にかすかに隙間風を感じた。
「いつも残しちゃって、もったいないわね」
「あら、リリィがそんなことを言うなんて、なにかあったの? 」
「べつに……」
母もわたしも細身の少食のため、わたしたちは家で食べるときも外食するときも料理の半分以上を残す。それが普通なのだと思って育った。
家の家政婦さんはテーブルに乗りきらないほど沢山の種類の料理を作ってくれたから、その中から気分で食べられそうなものだけをつまむ。
外食ではお店側はお客の目を満足させるためにわざと食べきれない分量の食事を出すものだから、おなかいっぱいで満足したという証拠に残す。
それが食事のマナーなのだと思っていた。
だから、テレビドラマで「残さず全部食べなさい」というセリフを聞くたびに、虐待の一種だと思ってしまっていた。
「だだ、このエビ、高いんでしょう? 一匹が大きいから、こんなにも残しちゃうのって悪いなぁって思って」
「なに貧乏じみたことを言ってるの。お父さんの仕事の関係で、わたしたちはこのホテルの上顧客なの。もっと注文しなさい。残せばいいのよ。料理人の方々は、わたしたちが食べようが残そうが一緒なのよ。たくさん注文してたくさんお金を落とすことのほうが喜ばれるのよ」
「食糧難で飢えている子供が世界にはいっぱいいるのに、わたしたちの食べ残しはゴミ箱に行っちゃうのが残念だと思っただけよ」
「まあ、そうね。ただ、そういうことを考えると、きりがないものよ。それとも、卒業論文の課題なのかしら? 」
母はそう言って、眉をしかめた。眉間にかすかな皺が寄る。
母は昔から、わたしが発展途上国に興味をもつことを嫌った。わたしを裕福なお嬢様として育てたプライドがあるのだと思う。
下をみないで、上だけをみて生きなさい、というのが母の口癖だ。
「授業料も払えなくて、奨学金で入学した人もいるんだって、わたし最近知ったの。バイトで生活費をかせぎながら大学に通っている人とか」
「そういう人もいるそうね。でも、そういう人とは関わらないほうがいいわよ」
「え、どうして?」
「世界が違うの。あなたとは、生きる道が違うのよ」
母はそう言って、目をそらして口をつぐんだ。このお話はもう終わり、という意味だ。
わたしは、食べきれない料理をつつきながら、ウルフのことを考えた。
いまの瞬間、ホテル・オークラの最上階で高級料理を食べているわたしと、カフェの洗い場で皿の山を片付けているウルフ。ふたりの世界は違うだろうか。
でも、電話で話していたときにはたしかに、わたしたちの世界は同じだった。同じ世界で同じ感性を共有し合っていた気がした。それは幻想なの?
それに、そもそも、世界はひとつなんじゃない?
♢
その日の夜、またウルフからショートメールが入った。
(-''-):本、貸してくれ
わたしはきっちりと三十分待ってから、返信した。
一度実践したルールの実践は二度目はもっと楽にできるものだと気づいた。
リリィ:いいよ
(-''-) :明日、あのベンチで
リリィ:了解
マーティン・イーデンという本はハードカバーしか出版されていない。しかも、とても分厚いために四千円程の値段がついていた。ウルフには買えなかったのだろう。わたしは本棚にある二冊のうちの新しいほうを取り出し、ウルフにプレゼントしようかと思ったが、あわててその考えを取り消した。
恋の相手にプレゼントをしてはいけない。そのルールについてはまたいつか書くとしよう。
♢
翌日もわたしの世界はお花畑だった。バッグの中にはウルフに貸す本が入っている。ひさしぶりにウルフに会える。面と向かって話せる。そう思うだけで、雲の上を歩いているように浮ついてしまっていた。
「リリィ、なんかいいことあったんでしょ?」
ドイツ法の授業が終わった廊下で後ろから肩を叩かれて、振り返ったらサチがいたずらっぽい顔でそう言った。
「なんで?」
「だってリリィ、授業中ずっとにやにやしてたもん」
「え、やだ。見てたの?」
「見えたのよ。わたし、リリィの斜め後ろに座ってたから、ばっちり見えたの。あんなつまんない授業をにこにこして聞いてる生徒はリリィだけよ。先生に惚れられちゃったらどうすんの?」
わたしたちは笑った。ドイツ法の教授は大学一険しい顔をした堅物だという噂だ。あの堅物が生徒に惚れるなんて想像できない。
「で、なにがあったの?」
「なにもないわよ」
廊下の窓から西日が長く射しこみ、周囲をオレンジ色に染めていた。
この光景、まるで青春ものの映画みたい。
そんな風に感じてしまういまの自分の脳はやっぱりお花畑になっているのだろう。
「隠しても無駄だってば。話聞いてあげる。これから時間ある? オータニのカフェに行かない?」
そのとき、ワンピースのポケットの中でスマホが振動した。取り出してみると、
(-''-) :悪い。急用で、今日行けなくなった
落胆のきもちが湧き上がってくる。
わたしはすぐに返信した。
リリィ : 了解。また今度ね。
すぐに返信してしまったけれど、溺愛ルール的には、このケースではセーフだと思う。こちらの欲求にまかせた内容ではないから。こういう返信の場合は焦らす必要はない。
ウルフの『急用』の内容が気になったけれど、それを尋ねなかった自分を褒めてあげることにした。やけ食いじゃないけど、会えなくなった寂しさという心の隙間を大きなメロンパフェとモンブランのケーキでめいっぱい埋めた。