第49話 スミレのバスタブとリンゴの紅茶

文字数 3,136文字

 小さなバスタブにお湯を張り、スミレの香りのバスボムを入れると、切なくて甘い紫色の香りがふわふわとバスルームに広がる。
 ダイニングに戻ると、ウルフは濡れたジャケットを脱いで手に持ち、居心地悪そうに立ち尽くしていた。白いシャツが濡れて肌に張り付いている。
「お風呂であたたまってて。濡れてるもの全部、乾かしておくから」
「わるいな」
「そこに置いておいて。ゆっくり入ってきて。乾くまでに時間がかかるから」
 ダイニングとベッドルームだけの狭いマンションだからソファもない。
 ウルフをバスルームの入り口に誘導すると、彼はそこで速やかに白いシャツを脱いだ。脱皮した蝶のように美しい筋肉で覆われた胸が現れた。引き締まった腹が目に入り、わたしはあわてて目をそらす。手を伸ばしてウルフから濡れたシャツを受け取って寝室へ逃げ、わたしはヒーターの前にそれらを干して、強風を当てた。白シャツからほのかなムスクの香りが広がった。
 バスルームからは湯にぽちゃんと浸かる音が聞こえてきた。
 ウルフが、わたしのお風呂に、入っている。
 そう思うだけで、胸の奥がはちみつのように溶けてしまう。
 ああ。想像してはダメ。大きな背中と肩、臍から下に向かって生える黒い茂みと、その先にある彼のあの部分を…。 
 体中がくすぐったく感じるのを無視しながら、あたしは熱いアップルティーを煎れた。
 この部屋に男性を入れるのも、バスルームを他人に使わせるのも、わたしにとっては初めてのことなのだ。浮足立ってしまうのはしょうがない。
 だけど、遊び人ウルフにとっては、女のバスルームを使うことはよくある日常なのだろうと思うと、胸がぎゅっと痛んだ。

 足つぼ棒やらマニキュアの瓶が散らばるテーブルの上を整頓したり、鏡をのぞいて髪を直すことを10回以上繰り返していたら、ヒーターの前で揺れていたウルフのシャツはいつの間にか乾燥昆布のようにパリパリに乾いていた。
 ちょうどバスルームが開く音がして、ほかほかに茹で上がったウルフがトランクス姿でリビングに入ってきた。頬や唇に赤みが戻っている。火照った頬はピンク色に染まって色気を漂わせている。凍えて紫色になっても、茹で上がって朱色になっても、どんな状態でもあらゆる種類の色気の塊なんだ、この男は。悔しい。
 白シャツを渡すと、ひらり、と袖を通して着るウルフから発する湯気と熱がスミレの香りを寝室全体に広げた。
「湯がすごい匂いだった。酔いそうだった」
「スミレよ。フランス村から取り寄せたの。いい香りでしょ?」
 そういうと、ウルフは肩眉をあげた。「文句を言える立場じゃないからな」
「なによ、それ。臭いっていうの?」
「いや、いいにおいでしたよ、お嬢様」
 ウルフがそう言って執事のように丁重にお辞儀してみせるから、わたしは笑った。すると、ウルフの白い歯がかがやく。
 ふたりの笑顔が重なったのは、ひさしぶりだった。あの日、体を重ねたときも、笑顔は重ならなかったのだ。
 衣類がすべて乾いた代わりに暖房の強風で真夏のように暑くなった部屋の入り口で、ウルフは白シャツとトランクスだけの姿でこちらを見ていた。筋肉質で大木のような太ももが視線に入るだけで下腹部がうずいてしまう。
「あ、そういえば、夕飯は食べてきたの? うちには食べ物なにもないのだけど」
「それ、開けてみろよ」
 ダイニングテーブルの上に置いたビニル袋を指さす。開けることをすっかり忘れ去られていた袋。
 わたしはそれを取ってきて、ビニル袋の中の紙袋を開けてみた。
 中に入っていたのはスコーンだった。5個入っている。わたしが大好きな、ふっくらとしたベノアのスコーン。
「どうして……?」
「それが好きだって言ってたろ?」
「うん。好きだけど……」
 クロテッド・クリームとジャムも3種類入っていた。
「でも、わたしが今日も出ていかなかったら、これ、どうしてたの?」他の女の胃袋におさまっていたのだろうか。
「おかげで、三週間毎日晩飯はスコーンだった」とウルフ。
「え、毎晩?って……毎日買ってきてくれてたの?」
「スコーンアレルギーを発症しそうだ。もう一生食べたくないね。店員にも覚えられちまったし」
「どうして? これを渡すためだけに、わざわざ毎晩ここに来てたの?」
「いや、電話もメールもつながらないから、話すためにはこうするしかなかっただろ」
 わたしはキッチンからウエッジウッドのお皿を取ってきて、スコーンを移す。湯上りに出してあげようと思って煎れていたアップルティーはすでに冷めていたが、それもあわせてテーブルに並べた。
「でも、べつにもう話すことなんてないでしょ」
「おれはある。謝りたいんだ。おれは、あのとき」
「待って。謝らないで。べつに悪いこと何もしてないし」
「じゃあなんで怒ってるんだ?」
 わたしはベッドに腰かけた。ウルフは寝室の入り口で立ったままだ。
「座れば? おなか空いたでしょ?」
 ベッドをポンと叩くも、ウルフはそれを無視して、眉を寄せた。白シャツにトランクスという姿なのに、畏まってみえる。白シャツ&トランクスのプリンス。まるでファッション雑誌の表紙を飾りそうなくらい決まっている。
「リリィ、おれは」
「もういいの、その話は。終わったことだし。それより、せっかくのベノアだから、食べましょ。紅茶は冷めちゃったけど、一応、フランスから取り寄せたラデュレの茶葉だから美味しいのよ」
「いや、先に言わせてくれ。おれは謝りたくて来てたんだ」
「謝らないで! ほんっとに。怒ってないから。自分の馬鹿さ加減に落ち込んだだけ。ここに座って、ほら、アップルティーいい香りでしょ?」
 そう言っても、ウルフは微動だにしない。真剣な目でこちらを見ている。いまにも床にくずおれて土下座しそうな勢いだ。おれはおまえで性欲を発散してしまった。おまえを玩具にしてしまったんだ。悪かった。登山家がそこに山があるから登ったと言ったように、遊び人のおれはそこに女とベッドがあったからヤッてしまったんだ。誰でもよかったんだ。本当に悪かった。許してくれ。ということを言うのだろう。いままで多数の女たちにそう言ってきたから、言い慣れているだろう。
 でも、わたしはどうしても彼に謝らせたくなかった。どうしても、被害者にはなりたくなかったのだ。「ウルフに遊ばれた女」にはなりたくなかった。自分の価値は自分で決めたいから、わたしは彼に謝られるくらいならば、互いに遊びだったと割り切って忘れて、対等な関係になりたかった。これはわたしのプライドなのだ。もしかしたら、まだウルフのことが好きで、対等な関係にこだわりすぎているのかもしれない。けれど、それでもいい。彼が通り過ぎた過去の女にはなりたくないんだ。
 
 顔をあげると、奥歯をかみしめているのだろう、ウルフの首元に筋が浮いているのが見えた。謝れば楽になれるのに、謝らせてくれない女なんて、初めてなのだろう。わたしはそんなに簡単な女じゃないのよ。
「ほんとにもう、あのことは忘れましょ」
「いや、それは無理だ」
「どうして? 忘れるのなんて簡単でしょ? べつに何もなかったんだから」
 そう言うと、ウルフの瞳が鋭くなる。
「おまえは、簡単なのか」
「ええ。わたしは簡単よ。現に、もう忘れたもん」
「嘘言うな」
「嘘じゃないわよ。ウルフだって、大勢の女の中のひとりくらい、簡単に忘れられるでしょ」
「大勢?」
 ウルフの黒曜石な瞳がわたしをまっすぐ射貫く。
「あなたがいままでヤッた女性たちのことよ。『大勢』でしょ?」
 そう言うと、体の横でウルフは両手を握りしめ、うつむいた。
「……いや。ひとりだけだ」
「え」
 彼は顔をあげて、わたしを見つめ、はっきりと言った。
「おまえだけだよ。リリィ」



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登場人物紹介

ウルフ 

男。大学三年生。リリィがひと目ぼれした相手。

リリィ 

女。大学四年生。このお話の主人公。

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