第48話 恋する男の瞳は天使をみる目
文字数 1,774文字
雲の隙間からさす太陽の光のことを「天使の梯子」という。
まさに今の彼の目はそれを見つけたときのようだった。マンションのエントランスが雲で、そこから出たわたしをまるで天使が降臨したかのようにまぶしそうに見つめていた。
そうだった。彼はいつもそうだった。
初めて出会った大学生のころからずっと。
大学構内ですれ違うときも、彼の傍らに他の女性がいるときも、わたしをまぶしそうに見つめていたその瞳。
そんな風に見つめられるとまるでわたしは自分が神になったような気分になってしまって居心地が悪くなるのだ。
「ウルフ」
ひらひらと桜の花びらのように舞う雪の中に立つウルフの頭にも冷たい花びらが積もっている。
急いで駆け寄って、彼に傘を差し出したが、彼はそれを無視し、わたしをみて微笑んだ。
「やっと出てきてくれた」その声は低く掠れている。
「何の用? ずぶぬれじゃないの。風邪ひくわよ」
彼は一歩わたしとの距離を縮め、ビニル袋をわたしの前に突き出した。
「これを渡したくて」
冷たい雨風に吹かれて、白いビニル袋がカサカサと音を立てた。
ビニル袋も、彼の手の甲も、溶けた雪と雨でびしょぬれだった。
ウルフは不安げにわたしの目を覗き込んだ。前髪は濡れて額に張り付き、溶けた雪が水滴になって頬を伝い落ちていく。
「なに、これ?」
「開ければわかる」
袋を受け取ると、彼は満足げに手を下ろした。そして、言う。
「それから、言いたいことがある。おれは…」
頬は紅潮し、瞳は暗闇の中でもかがやいて、吐く息は白い。
「おれはあのとき…」
謝る気だ、とわたしは思った。愛のないセックスをして、わたしを傷つけたことを謝る気なのだろう。けれど、そんなお情けは要らない。
「待って。あとにして。まずタオルで拭いたほうがいいわ。来て」
何か言いたげな彼を手で制してそう言うと、彼は驚いたように目を丸くした。わたしの部屋にあがるつもりはなかったらしい。ここで謝罪の言葉とともにビニル袋(なにが入っているのかわからない)を渡すだけのつもりだったのか。たったそれだけのために、吹雪の中で立っていたというのだろうか。
「さっさと来て。寒くて耐えられないから」
そう言って踵を返すと、彼も無言でついてきた。
エレベーターの中の彼は所在なさげに壁際に寄っていた。寒さのせいで、唇は紫色に染まっていたが、瞳は黒い炎に燃えていた。
「寒くないの?」
「いや」
逞しい身体に張り付いたスーツはじっとりと濡れていて、表面は凍っているように見える。相当寒いはずだ。けれど、ひさしぶりに見る彼は、やっぱり、信じられないくらいセクシーだ。
「どうして、傘をささなかったの?」
「忘れてた」
「わたしが出てくるまで待つ気だったの? こんな雪の日なのに」
「メールも電話も無理なら、こうするしかないだろ」
「だからって……」
毎晩、あんな風に突っ立ってるなんて、おかしいでしょう? と言おうとして、気づいた。本当にこうするしかなかったのだ。連絡手段がないからといって、連絡を取ることを諦めるような男ではない。それがウルフなのだ。
わたしはもう二度と会わないと伝えたのに、ウルフはそれを聞き入れなかった。それがウルフなのだ。
わたしはマンションの扉を開けて靴を脱ぎ捨て、カスミソウの花瓶で埋め尽くされたダイニングテーブルの脇を通り抜け、バスルームの棚を開けて大きなバスタオルを取ってきた。
玄関に戻ると、ウルフは微動だにせずに玄関の外で立ち尽くしていた。まるで大きな捨て犬。雨に濡れた犬。行儀の良いハスキー犬のようだ。
わたしはバスタオルを広げ、背伸びして彼の頭を包み込んで、無造作に髪を拭いてあげる。すると、彼は頭を下げてわたしのなすがままになっていた。
「一枚じゃ足りないわね。ほら、自分で拭いて。わたしはお風呂を温めてくるから。入って」
そう言って背中を押して玄関の中に彼を押し入れる。手に触れたスーツの生地は氷のように冷たかった。
「風呂? いいよ、ここで。すぐ帰る」
「何言ってるの。顔色が悪いから、そのままだと絶対に風邪ひくわよ。まず体をあたためて。ちゃんと服を乾かしてから帰ってくれる? 入ったらスーツを脱いで。ヒーターの前で乾かすから」
語気を強めて言うと、ウルフは少し困ったような顔をしてから、しょうがないなぁという顔をして靴を脱いだ。
まさに今の彼の目はそれを見つけたときのようだった。マンションのエントランスが雲で、そこから出たわたしをまるで天使が降臨したかのようにまぶしそうに見つめていた。
そうだった。彼はいつもそうだった。
初めて出会った大学生のころからずっと。
大学構内ですれ違うときも、彼の傍らに他の女性がいるときも、わたしをまぶしそうに見つめていたその瞳。
そんな風に見つめられるとまるでわたしは自分が神になったような気分になってしまって居心地が悪くなるのだ。
「ウルフ」
ひらひらと桜の花びらのように舞う雪の中に立つウルフの頭にも冷たい花びらが積もっている。
急いで駆け寄って、彼に傘を差し出したが、彼はそれを無視し、わたしをみて微笑んだ。
「やっと出てきてくれた」その声は低く掠れている。
「何の用? ずぶぬれじゃないの。風邪ひくわよ」
彼は一歩わたしとの距離を縮め、ビニル袋をわたしの前に突き出した。
「これを渡したくて」
冷たい雨風に吹かれて、白いビニル袋がカサカサと音を立てた。
ビニル袋も、彼の手の甲も、溶けた雪と雨でびしょぬれだった。
ウルフは不安げにわたしの目を覗き込んだ。前髪は濡れて額に張り付き、溶けた雪が水滴になって頬を伝い落ちていく。
「なに、これ?」
「開ければわかる」
袋を受け取ると、彼は満足げに手を下ろした。そして、言う。
「それから、言いたいことがある。おれは…」
頬は紅潮し、瞳は暗闇の中でもかがやいて、吐く息は白い。
「おれはあのとき…」
謝る気だ、とわたしは思った。愛のないセックスをして、わたしを傷つけたことを謝る気なのだろう。けれど、そんなお情けは要らない。
「待って。あとにして。まずタオルで拭いたほうがいいわ。来て」
何か言いたげな彼を手で制してそう言うと、彼は驚いたように目を丸くした。わたしの部屋にあがるつもりはなかったらしい。ここで謝罪の言葉とともにビニル袋(なにが入っているのかわからない)を渡すだけのつもりだったのか。たったそれだけのために、吹雪の中で立っていたというのだろうか。
「さっさと来て。寒くて耐えられないから」
そう言って踵を返すと、彼も無言でついてきた。
エレベーターの中の彼は所在なさげに壁際に寄っていた。寒さのせいで、唇は紫色に染まっていたが、瞳は黒い炎に燃えていた。
「寒くないの?」
「いや」
逞しい身体に張り付いたスーツはじっとりと濡れていて、表面は凍っているように見える。相当寒いはずだ。けれど、ひさしぶりに見る彼は、やっぱり、信じられないくらいセクシーだ。
「どうして、傘をささなかったの?」
「忘れてた」
「わたしが出てくるまで待つ気だったの? こんな雪の日なのに」
「メールも電話も無理なら、こうするしかないだろ」
「だからって……」
毎晩、あんな風に突っ立ってるなんて、おかしいでしょう? と言おうとして、気づいた。本当にこうするしかなかったのだ。連絡手段がないからといって、連絡を取ることを諦めるような男ではない。それがウルフなのだ。
わたしはもう二度と会わないと伝えたのに、ウルフはそれを聞き入れなかった。それがウルフなのだ。
わたしはマンションの扉を開けて靴を脱ぎ捨て、カスミソウの花瓶で埋め尽くされたダイニングテーブルの脇を通り抜け、バスルームの棚を開けて大きなバスタオルを取ってきた。
玄関に戻ると、ウルフは微動だにせずに玄関の外で立ち尽くしていた。まるで大きな捨て犬。雨に濡れた犬。行儀の良いハスキー犬のようだ。
わたしはバスタオルを広げ、背伸びして彼の頭を包み込んで、無造作に髪を拭いてあげる。すると、彼は頭を下げてわたしのなすがままになっていた。
「一枚じゃ足りないわね。ほら、自分で拭いて。わたしはお風呂を温めてくるから。入って」
そう言って背中を押して玄関の中に彼を押し入れる。手に触れたスーツの生地は氷のように冷たかった。
「風呂? いいよ、ここで。すぐ帰る」
「何言ってるの。顔色が悪いから、そのままだと絶対に風邪ひくわよ。まず体をあたためて。ちゃんと服を乾かしてから帰ってくれる? 入ったらスーツを脱いで。ヒーターの前で乾かすから」
語気を強めて言うと、ウルフは少し困ったような顔をしてから、しょうがないなぁという顔をして靴を脱いだ。