第6話 恋されたければ一度目の誘いは断ったほうがいいです

文字数 3,907文字

 わたしの実家は都心の一等地にあるから大学まで電車で30分もかからない。
 けれどわたしは、人生経験を積みたいとか何とか理屈をこねて、親のお金で実家の一駅となりの街で一人暮らしをさせてもらっている。父が会社社長という家に生まれてプレッシャーに押しつぶされそうな思春期を過ごした過去の対価をもらっているのだと思えばそれほど悪いことでもないと思っている。
  
 寝坊してあさイチの授業に遅れそうになり、急いで扉を開けたら、扉の外に小さな小箱が置かれていた。ネットで商品を注文した記憶がないので不思議に思いながら、急いで玄関で小箱を開けている。
「わあ…」
 白くて小さな花がたくさん束ねられている花束だった。
「カスミソウだわ」
 小さな花びらには細かな水滴がついていた。摘み取ってきたばかりのようなみずみずしさ。
 箱の側面をみても、差出人名もなにも書かれていない。宅配ではなく、誰がが直接ここに置いたのだ。
 いったい、誰だろう。
 とりあえず、わたしは走ってダイニングに戻り、テーブルのうえに置いてあったバカラのクリスタルの花瓶に花束と水をいれて飾った。
 そして、もう一度マンションの扉を閉めて、鍵をかけて、最寄り駅に走った。

 午前の授業が終わって、学食でボンゴレ・パスタを食べていると、わたしの前にひとりの男が座った。白いカルバン・クラインのセーターに包み込まれた肩幅は広い。
 たしか、同じクラスで、名前はゴウ君。一年生の頃に短期の憲法ゼミで一緒に課題を仕上げたことがあるから一応知った仲だ。
「ひさしぶりー。元気?」彼はそう言って、まるで歯磨き粉のCMみたいにさわやかな笑みを向けてきた。
「うん、元気。どうかしたの?」
「いや。ひさしぶりに学食に来たら、リリィのなつかしい顔があったからさ」
「あんまり学食ではみたことがないんだけど、普段はカフェテリアのほうで食べてるの?」
「そうだね。あとは、外の店が多いかな。裏どおりのイタリアンとか、そこのホテルの中のカフェのほうが味もいいし、落ち着くんだ。庭も綺麗だし」
 そう言って、ゴウ君は窓の外を指さした。遠くに日本有数の一流ホテルが見える。たしかコーヒー一杯が千円以上するはずだけど、ゴウ君にとってはどうでもいいことなのだろう。
「たしかに、ここのコーヒー美味しくないもんね」わたしは笑ってみせた。
「ああ。パスタもね。素材が悪いんだ。そのアサリもたぶん輸入品だよ」
「素材? こだわりがあるのね、ゴウ君は」
「父親の仕事柄、小さいころから教え込まれてるからな」 
 ゴウ君が得意げにほほ笑む。
「お父さんの仕事、料理人かなんかだっけ?」
「いや、ホテル経営」
「なるほど」
 この大学の生徒はお金持ちが多い。
 とくに幼稚舎からの上り組は筋金入りのお金持ちだ。幼稚舎からの上り組ではなくても、中学受験、大学受験をして一流の私立大学に入るためにはそれなりの受験勉強が必要で、そのためには幼いころから塾などの授業料が払える家庭の子供に限られる。だから、必然的に裕福な家庭の子供が多くなるのだ。
 そして、わたしは自分のことを棚に上げて言わせてもらうと、裕福な子女が苦手だった。理由はわからない。
「リリィん家は商社っしょ? あ、そのネックレス、かわいいじゃん。どうしたの?」
「え、これ? 母の手作りよ」
 手芸が趣味の母は、最近はアクセサリー作りにもハマっている。今年の誕生日に、わたしが幼いころから好きだった花をモチーフにしたネックレスを作ってくれたのだ。カスミソウ。
「似合ってるよ。白い肌にぴったりだ」
「あ……ありがとう」
 やっぱり、朝のカスミソウはゴウ君からだったのか。 
 でも、送り主の名前が書かれていなかったから、きっと送り主は正体を明かしたくないのだろう。そう思ったわたしは、カスミソウの件は無視をすることにした。それほど興味もないし、無視することは簡単だ。
 そうだ。好きではない男のことには興味がないから、質問攻めにすることもないし、自分のことをさらけ出すこともない。そのため、自然と溺愛ルールを実践してしまうのだ。そして、惚れられるという結果になることが多い。
 ゴウ君はあからさまにわたしの首をじっと見つめている。
「首、ほそいよね。折れそうだ」
「そ、そう?」
「ちょっと小耳にはさんだんだけど、リリィいま、フリーだって本当?」
「え?あ、うん。そうだけど?」
 ゴウ君はすこし遠くをみて考える男のようなポーズを取ってから、ベージュのチノパンのポケットから短冊型の紙を取り出してみせた。
「モネ?」
「父親の関係でもらったんだけど、一緒にどう? モネ、好きでしょ?」
「うん。モネは好きだけど……」
 わたしがモネを好きなのは誰の目にも明らかだ。iPadもスマホも待ち受け画面はすべてがモネの睡蓮だもの。
「だけど?」
「彼女は? テニス部の、あのかわいい……」
「ルミナとは先月別れたんだ」
「え?! そうなんだ」
「うん。彼女、大阪の実家に帰ることになってね。話し合って別れたんだ。円満に。だから、遠慮しなくてもいいよ」
 なるほど。だから次の候補を探してるのね。なるほど。身に振り方が速いというか軽いというのも、裕福で育ちが良くてモテる男によくある傾向だ。なるほどね。
「遠慮なんかしてないけど、最近ちょっと忙しくて……」
 目を泳がせてながら、学食の入口のほうを見やると、ウルフの長身の姿があった。襟元がヨレたグレーのセーターに包まれた分厚い胸板がやけに目立つ。
 ウルフの左腕にはショートカットにタータンチェックのミニスカートが似合う女がぶら下がっている。いや、しがみついていると言ったほうが正確か。
「ウルフ、あいつ、また女変えたんだな。んとに、女好きなヤツ」
 わたしの目線を追って、ゴウ君が眉をしかめた。
「あの子、一年生?」
「いや、三年だと思うよ。たしか、おれと中高が一緒だったから文化祭とかでみたことがある」
「ふぅん」
「身分が違うからどうせ別れることになるのに、なんで女って顔がいいヤツには弱いんだろうな」
「え?『身分』って?」
「あ、いやぁ……ウルフは奨学金組だろ? 彼女は親が官僚だからさ。育ちが違いすぎるよ」
「奨学金組?」
「ああ。授業料が払えない家ってことは、相当貧乏ってことだろ? 生活費はバイトでまかなってるらしいよ」
「そうなんだ」
 二年以上の間、ウルフの噂には耳をそばだててきたはずなのに、そんなことも知らなかった自分に驚いた。ウルフの家が貧乏だったなんて、知らなかった。というか、考えたことがなかった。わたしは他人の家の財政事情に興味がなくて苦労知らずのお嬢様だったのだ。
「おれの友達が先月、あいつが新聞配達してるところを見たんだってさ」
「新聞配達? ウルフが?」
「そうそう、夜明けの暗いうちから自転車で下町を回ってるらしいよ。新聞配達ってなんか昭和時代の苦学生の象徴だよな。あいつならホストでもなんでも。もっと割がいい仕事ができそうなのに……って言うのはおれじゃなくて友達が言ってたことだけど」
 胸が熱くなった。ウルフが新聞配達をしてるなんて、わたしの中のウルフという名の宝箱にまたひとつ素敵な宝石が加わった。キラキラと輝く恋の宝石だ。
 ほうっとためいきをついて頬杖をつくと、まっすぐにウルフと目が合った。いつもは十分の一秒くらいしか合っていなかった目が、いま、ずっと合っている。あの寂しいハスキー犬と同じアイスグレーの瞳。
「まあ、あいつのことより、モネ、いつ観に行く? 美術館に併設されてるカフェのタルトがまた美味しいんだよ」
 ゴウ君はウルフの存在などすっかり忘れて、ほほ笑みながらチケットをわたしの前に滑らせた。
 そして、隣にあるホテルも案内できるよ、と言った。
「ごめん。ちょっと最近忙しいから……」
「じゃあさ、まだ期限があるから、スケジュール調整してまた連絡してよ。年が明けてからでもいいし」
 断ろうとするわたしにさわやかな笑みを向けて、ゴウ君はすっと立ち上がった。彼の一挙一動から育ちの良さがにじみ出ている。大切に愛されて育った人に特有の自信もにじみ出ている。
「なるはや(なるだけ早く)のほうがいいけどね」
 そう言って、ゴウ君は去っていった。そりゃ、そうよね。つぎの彼女の座は早いうちに埋めたいんでしょうね。裕福な花嫁候補リストに順位をつけていそうだと思いながら、チケットをバッグに入れ、いちおう手帳を取り出してスケジュールを確認してみた。スケジュールはほとんど空いているけれど、ゴウ君との予定が入る隙間はない。
 うつむいたわたしの額に、遠くから、ナイフのように鋭いウルフの視線を感じた。

 『恋されて大切にされたければ、一度目のお誘いは断ったほうがいい』
 これは、わたしが考えて導き出した結論のひとつ。
 忙しいからもうその日は埋まってるの、とか何とか理由をつけて、やさしく断るのだ。すると、断られた男は少しショックを受ける。軽い気持ちで誘ったのだとしても、断られたことでその誘いの重みがすこし増し、彼女の価値があがるのだ。
 ゴウ君には好かれたくないのに、何気なくした言動がこのルールの実践になってしまったため、また好かれてしまうのだろう。
 でも、本気で好きな男性に対してこのルールを実践するのは難しいだろう。

 好きではない男性に対して何気なくやっている言動のせいでその男性に好かれてしまう事実を自ら作り出していることについて、世の女性の大半は気づいていない。
 そして、好きな男性にはそれとはまったく逆の言動をしてその男性のきもちを萎えさせてしまっていることについても、大半の女性は気づいていない。
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登場人物紹介

ウルフ 

男。大学三年生。リリィがひと目ぼれした相手。

リリィ 

女。大学四年生。このお話の主人公。

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