第17話 恋されて大切にされたければ彼の連絡先は消去しましょう

文字数 3,798文字

「なんでこんなところにいるの?」
 五年ぶりにウルフと会って、最初にわたしが発したことばが、これだった。
 普通の女性だったら、まず、『ひさしぶり~』とか『元気?』などの気の利いたことを言って、キュートなほほえみを投げるのだろうのに。ウルフを前にしたわたしは、なぜか辛辣なことしか言えなくなってしまう。
 ウルフは太い眉をしかめた。
「そこがおれの会社だからだ」
 そう言ってウルフは道路の向こう側にある大きなビルを顎で指した。ガラス窓で覆われた建物は西日を受けて燃えるように輝いていた。
「おまえこそ、こんなところで何やってるんだ。ちゃんと前見て歩けよ」
 面倒くさそうにため息をつくウルフの手元にはスタバの紙カップがある。
「あ……っ!ごめん……」
 白いシャツの胸元には茶色の染みが点々とついていたから、わたしは思わず声をあげた。コーヒーカップの蓋は閉まっているが、ぶつかった拍子に飲み口からコーヒーが少しあふれ出たのだろう。
 花束を脇に抱えて、バッグの中からミニタオルを取り出す。そして、ウルフの胸板に押し付けると、ウルフは少しあとずさった。けれど、かまわずわたしはタオルを押し付けた。
「わ~~取れなくなっちゃったらどうしよう……」
 数回タオルで押さえてから擦ってみても、コーヒーの茶色い染みは薄く残った。
「いいよ、古いシャツだ。捨てようと思ってたとこだ」
「そんなわけないでしょ。これ、すごくいい物にみえるもん」
 ダンヒルとか、アルマーニとか、そういう高級ブランド品のモデルが着ている雰囲気のあるシャツだ。オーダーメイドの品だったら七万円以上するのだろう。
「いや、ユニクロ」
「まさか。染みがとれなくなっちゃう前に早くクリーニングに出したほうがいいわ」
 そう言って見上げると、ウルフと目が合った。五年ぶりの瞳は黒目がちで、すこし寂し気で、すこし翳りがあり、すこしあたたかみのある、野生の狼のようなウルフの瞳だった。五年前と全く変わっていない。
 そして、記憶の中のウルフよりも大きくて、逞しくて、荒々しい肉体をもっていることがシャツ越しにもわかる。
「ここで脱げって?」
 ウルフはそう言って、少しおかしそうに口元をゆがめて、周囲に目をやる。オフィス街の片隅には帰宅を急ぐサラリーマンたちの姿がある。
「え?」
「クリーニングに出すんだろ?」と言って、ウルフは自分の服のボタンに手をかけて悪戯な笑みを向けてきた。
「ち、違うわよ。自分で……行きつけのクリーニング屋に出してくれる?」
 わたしはバッグの中から名刺を取り出した。そして、ウルフの前にそれを突き出す。
「クリーニング代は……後払いでもいいかしら。もし取れなかったら弁償するから。後日このメアドに連絡くれれば、振り込みます……」
 五年前に電話代と言って一万円を押し付けた嫌な記憶が蘇り、語尾が小さくなった。あんな失礼なふるまいは、もうしたくない。あのことは、わたしの過去の最悪なふるまいトップ10に入るほどに後悔しているのだ。
「金なんかいい」
 ウルフはそう言って、わたしの名刺を受け取って無造作にポケットに突っ込んだ。そして、スタバのコーヒーカップに口をつけて一口飲み、それから、わたしの顔をじっと見つめた。そして、視線をゆっくりとおろしていって、靴の先まで見つめ、それから、また視線をあげて、目を見つめた。
「……髪型、変えたんだな。大人っぽくなった」
「あ、うん。ウルフも、大人っぽくなったね。スーツ姿なんて初めてみたわ。ちゃんと働いてるんだね」
「ああ」
 ちゃんと働いていることと、仕事で成功したことは雑誌で読んで知っているけれど、あえてそれは言わない。
 ここ二週間のあいだずっと毎晩あなたの写真を見ているのよ、なんて言わない。
 ここ二週間のあいだずっとあなたのことで頭がいっぱいで眠れなくて仕事も手につかなくて、彼氏にも興味がもてなくなって困っているのよ、なんて言わない。絶対に。
 わたしはゆっくりと息を吸って吐いた。そして言う。
「ちゃんとした社会人になったみたいで、よかったわ」
「なんだよそれ」
「だって、最後にしゃべったとき、酷かったから」
「ああ。最後に会ったときのおまえは酷かった」
「わたし? 酷かったのはそちらでしょ?」
 ウルフは一瞬険しい目でわたしを見て、何かを言おうとしてから口をつぐみ、わたしの腕の中にある花束に目をやった。薔薇の花束はわたしたちの衝突の際のエアバッグになったために潰れていた。
「あ……」
 すっかり忘れていた。手の中に花束があったことも、ほんの十分前にイシ君から花束をもらって浮かれて闊歩していたことも、ここがオフィス街だということも、すっかり頭から抜けてしまっていた。ウルフを目の前にすると、ウルフのことしか考えられなくなる。
「その花、貰いものか?」
「うん……でも」
 でも、何? わたしは何を言おうとしているの?
 視線を地面に落としてさまよわせる。すると、
「じゃあ、おれは急いでるから」
 ウルフが足を踏み出した。そして、わたしの横を通り過ぎていく。
「あ……」
「ちゃんと前見て歩けよ」
 肩越しに少し振り向いてそう言って、ウルフは去っていった。
 バイバイ、とか、またね、とかいう挨拶はなにもない。
 オフィス街のビル群に消えていった大きな背中を真っ赤な夕焼けが照らしていて、その姿が見えなくなるまでわたしはそこに立ち尽くしていた。
 燃えるような夕焼けに照らされたオフィス街が、万華鏡を覗いたときのように美しくみえた。五年前に就職してこの街で働くようになって以来ずっと見てきた景色なのに、これほど幻想的にみえたのは初めてだった。胸の鼓動が高まる。
 この胸のときめきは、何?
 大学時代のころを思い出させる懐かしい感覚。
 この胸の苦しさも。わたしは、五年前からまったく成長していない。
 わたしはウルフに恋しているんだ、いまも。



 雲の上を歩くようなふわふわした足取りで帰宅し、自宅マンションの扉を開けた。
 そして、ダイニングテーブルに上に薔薇の花束を置く。
 包装紙を取って薔薇の花を取り出すと、それらの茎がぽっきりと折れていることに気づいた。ウルフと衝突したときの激しい衝撃を思い出す。彼の胸板は分厚い筋肉に覆われていて、ぶつかったわたしは後ろに跳ね返って倒れそうになったわたしを支えてくれた大きな手のひらは熱かった。
 折れた茎をテープで補強してバカラの花瓶に花を生けると、指の横から真っ赤な血が流れていることに気づいた。棘が刺さったのだろう。
 指を消毒して、絆創膏を巻いて、それからシャワーを浴びて、そして、東海岸の海にダイビングするように、勢いよくベッドに寝転がった。
 五年ぶりに会ったウルフのゴージャスな魅力に脳みそが浸食されている。
 胸の中ではカラフルな蝶々たちが羽ばたいている。 
 寝転がったまましばらく天井をみていたが、ふいに棚の中にある手帳を思い出して飛び起きた。
 そして、手帳を開いてページをめくる。
 大学生時代にさまざまな本を読んで研究してマイルール化したノートは手帳の後ろのほうに押しやられていた。
『彼に恋されて大切にされるルール』というタイトルのページを探し出して、その内容に目を走らせる。
『こちらからは連絡してはいけない』
『こちらから話しかけてはいけない』
『こちらから誘ってはいけない』
『メールの返信は時間を置いてからにすること』
 大学生時代に実践して、最後に違反してしまったルールの数々を読み返す。
 その中に、再会した場合のルールが目に留まった。
『再会しても、嬉しそうにはしゃいではいけない』
 今日のわたしはウルフに再会して嬉しそうにはしゃいだだろうか? いや、はしゃいでいないと思う。けれど、褒められるようなふるまいではなかった。どうしてウルフに対しては素敵な女性のふるまいができないのだろう。
 ウルフとぶつかって会話して別れるまでの自分のふるまいを脳内で何度も巻き戻してみた。けれど、会話のすべてが最悪な態度だったと思わざるを得ない。
 もう一度やり直したいと一瞬思ったけれど、思い直した。もう二度と会いたくない。
 ふと思い出して、バッグの中からスマホを取り出してから、五年前のウルフの電話番号は卒業と同時に消したことを思い出した。こちらから連絡する手立てはない。けれど、もし残っていたとしても、こちらから連絡してしまったら五年前と同じ末路を辿るだけだ。だから、連絡先が残っていなくてよかった。
 もしウルフの連絡先が残っていたら、わたしはまた連絡してしまっただろう。そして、返信がないと苛立ち、不安になり、何度も連絡したりして、無駄な時間を過ごしたことだろう。連絡がついた場合は無意味な会話をし、喧嘩腰になったり責めたりして、挙句の果てには彼をうんざりさせる最悪な女になっていたことだろう。そして彼に振られて生きる屍のような生活をまた送ることになるのだろう。
 大学を卒業した後三年程のあいだ、わたしは失恋のトラウマから男性と関わることを避けて過ごしたのだった。もうそんな経験は二度としたくない。傷つくのはまっぴらだ。
 もう二度と、ウルフとは関わりたくない。
 だから、連絡先を消していてよかったと思った。
 受信ボックスを開いてみると、イシ君から何件もメールが入っていたけれど、返信する気にならず、そのまま眠りについた。
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登場人物紹介

ウルフ 

男。大学三年生。リリィがひと目ぼれした相手。

リリィ 

女。大学四年生。このお話の主人公。

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