第33話 恋されて大切にされて結婚できるメールのルール

文字数 3,147文字

 
 夜のオフィス街で緑色に輝くスターバックスの人魚のロゴは疲れたサラリーウーマンの目を引く。
 わたしとマミは残業を終えて帰宅途中のコンビニで偶然鉢合わせ、ここで立ち話をするは周囲の邪魔だからカフェに行きましょうという話になってここに来た。オフィスタワーの地下に位置する細長い店内にはスーツ姿のサラリーマンがぎっしりと埋め尽くしていて、スタンドスタイルとなっている。スタバのコーヒーの匂いは麻薬のように仕事中毒の人間を引き寄せるのだ。
「これ、みてくださいよ。堀江さんから来たメール」
 白いファーで囲まれた山羊な顔をかがやかせてマミはわたしにスマホの画面を見せてきた。堀江というのはマミの先輩男性だ。

堀江:『よかったら今度夕食でもどうですか? 青山に美味しいフレンチの店を知ってます』

「それに対してわたしの返信がこれです」と言ってマミが画面をタップして見せる。

マミ:『美味しいフレンチですか』

 マミからの返信はそっけなくて、顔文字もなにもついていない。
「堀江先輩の返信がこれです」と言ってまたマミが画面を見せてくる。

堀江:『美味しいという噂なんですよ。いつかマミさんをお誘いしたいと思っていました。今週末はどうですか?』

「返信を考えてるんですけど、こういう返信でいいですかね?」と言ってまたマミが画面を見せる。作成途中の文章だ。
マミ:『ありがとうございます。ぜひお誘いを受けたいと思います。今週末で大丈夫です』

 マミは山羊な顔をすこし紅潮させてわたしを上目遣いで見て言う。
「わたし、堀江さんには失敗したくないんです。かわいいハートマークとか付けたほうがいいですかね?」
「ハートマークなんかないほうがいいわ。このままでいいわよ。メール文の作成、上手なのね」とわたしは言った。
「え、上手ですか? わたしメールとか苦手なので、もともとあんまりしないんですよ。前の彼氏には女の子っぽくないってよく言われてました。普通の女の子はもっとキャピキャピしたメールを頻繁に送るんでしょうけど」
「男性のことばを真に受けないほうがいいわよ。彼らは自分に都合の良いことしか言わないから。こちらが言うとおりにすると満足して飽きてその女を捨てるだけ。だからメールの文章は必要最小限にしたほうがいいの。恋愛のスタート地点ではとくに、ミステリアスにすることが大事。普通の女子みたいに沢山無駄なことを書いて送るのはやめたほうがいいのよ。重たい女になっちゃうから」
「そうなんですか? 知らなかったー。でも確かに、昔彼氏に言われたとおり長文メールを送ると返信が来なかったりして、意味不明だと思ってました」
「そんなもんよ。だからここの『ありがとうございます。ぜひ…』ってところも要らないと思う。『今週末なら大丈夫です』だけでいいのよ」
「そうなんですね! なるほどーーありがとうございます」と言ってマミはメール文を修正した。
「メールは所詮、男性にとっては伝達手段だから、こちらの好意は見せないほうがいいの。重たい女はウザいと思われるだけだし、すぐに飽きられちゃうから。男性って飽きっぽいのよ。メールだけで好意を勝ち取れると思ったら、もう努力しなくなっちゃって彼女に優しくできなくなるものなの。だからメールは一行だけで必要最小限にして、そのかわりに実際に会ってるときに相手を持ち上げていい気分にさせてあげるのよ。そうすれば男性は彼女に会いたくなるし、結婚したくなるの」
「さすがリリィさん! 同期のナナエがリリィさんに恋愛相談したらうまくいったって聞いたから、いつか相談したいって思ってたんですー。今日お会いできて、すっごいラッキーでした」
 ナナエとは案件の飲み会で一度隣の席になって、ちらりと恋愛成就の法則を教えたことがある。『追えば逃げる。引けば惹かれる』という男性心理パターンの基本を教えただけなのだけど、東大卒の賢い彼女はその教えを厳しく順守し、さらに応用させて恋されるふるまいを徹底し、すぐにお目当ての男性を落として結婚したと後日会ったときに聞いた。
「わたしもリリィさんの教えを守って、堀江さんとはうまくいくといいなぁ。もう歳だから、無駄な恋愛はしたくないんです。堀江さんなら将来有望株ですし。それにわたし、次に付き合う人とは結婚したい。だから戦略的恋愛をしようと決めてるんです。ナナエもそうして結婚できたわけですし。ナナエは『リリィさんは神だ』って言ってました」
「ううん、全然わたしなんてダメよ。わたしもいつも失敗しちゃう。ほんとに好きな相手には、余計なことを言いたくなっちゃうものよね」
「そうなんです! ほんとに好きな相手にはなぜか余計なことばっかり言って、引かれちゃう」
「そうそう、それで、好きじゃない男には好かれちゃうのよね」
 それからマミとは恋愛の話で花が咲いた。わたしたちキャリアウーマンはとくに、恋愛でも仕事と同じようにこちらからガンガン攻めて尽くしてしまう。すると仕事では速やかに良い結果が出るのに対して、恋愛では男性が速やかに引いていく。その法則に気づいてからというもの、勉強が得意だった自分を初めて否定したくなるのだ。いままでプライドを保っていた学力の偏差値の高さが恋愛では通用しないことに気づいた瞬間に自己肯定感が下がり、自信喪失し、足元が崩れ始めて集中力が欠けて仕事にも悪影響が出る。この年頃(結婚適齢期と言われる年齢)の恋愛における失敗はわたしたちエリート系女性にとってすべての方向にマイナスな影響を与えてしまうものなのだ。
 そんなことを話しているうちに、わたしはイシ君のことを思い出した。
 イシ君にはあれから何度も電話で別れたいという意志を伝えているけれど、イシ君はまだ完全には納得できないようで、理由を問う連絡が何度か来ている。男性は手に入りそうで入らない距離のものに憧れて好きになるというけれど、その典型だと思う。あと少し口説けば落とせるかもしれないという段階で男性は興奮し、本能が目覚め、快感をおぼえるのだ。
 他方で、男性は、努力しなくても手に入る距離にいる女性には魅力を感じないし、大切に扱おうとも思えない。それが狩猟民族として生きてきた人間の雄の本能だ。そして、ウルフにとってわたしは「大切にしなくてもいい女」という範疇に入っているのだろう思うと胸が痛くなった。自業自得だもの。
 好きと告白して押し倒してトランクスを引き下ろしてまたがるようなわたしは、そもそも他人に恋愛のレクチャーをするような立場ではなく、恋愛敗北者だ。ウルフに拒まれて、完全に、こてんぱんに、ノックダウンされた敗北者。自信喪失者。
 『もう恋なんてしないなんて言わないよ絶対』なんていうマッキーの歌みたいな元気はなくて、本気でもう恋なんてしたくない。
 
 キャラメルマキアートの泡をスプーンですくって口に入れると、甘いキャラメルの香りが心地良い。薄暗い店内には静かな音楽が流れ、チョコレートやカスタードの香りと混じったコーヒーの匂いに満たされている。
 そのとき、店の奥のほうから鋭い矢のような一筋の視線を感じた。奥の一角は薄暗いため、わたしの立ち位置からはよく見えないけれど、日本人離れした背の高いスーツ姿の集団のようだ。グレーのスーツは見るからに高級そうで、高収入な会社で働く男たちの匂いがする。
 丸の内といえども、わが社のオフィスからは少し離れているため、この店には顔見知りはいないはずだけど、誰だろう?
 そう思って目を凝らしてみると、集団の中でひとり少しうつむいていた男が顔をあげた。
 ダークブロンド色の前髪の隙間からこちらを見るヘーゼル色の瞳。暗闇で七色に光る不思議な色合いに見覚えがある。この瞳は……
 「カーター……!」



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登場人物紹介

ウルフ 

男。大学三年生。リリィがひと目ぼれした相手。

リリィ 

女。大学四年生。このお話の主人公。

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