第34話 恋のお相手以外に対峙するときには恋のルールは蚊帳の外。
文字数 2,920文字
カーターに間違いない。
ウルフとのキスを見られてしまった時にエレベーターホールであわせた顔と、先日わたしを襲った男の顔が、いまぴったりと一致した。やはり、あの男はカーターだった。
「ちょっと用事が出来たから、今夜はここでお開きにしましょう」
わたしはカップに残っていたマキアートを飲み干して、マミに言う。
マミはコートの袖を捲ってカルティエのウォッチに目をやり、驚いたように声をあげた。
「あ、遅くなっちゃいましたね! しゃべり過ぎちゃってすみません、こんな時間まで付き合わせてしまって」
「全然いいのよ、楽しかったわ。また堀江君との続きを聞かせてね」
「ハイ、リリィ先輩の忠告を守って、良い報告ができるようにがんばります!」
カップをゴミ箱に捨ててマミが店を出たのと同時に、わたしは店の奥に足を向けた。店内は細長い形になっていて、カーターの属する集団がいる店の角のほうはかなり薄暗い。
カーターは4人ほどの男性たちと談笑していたが、まっすぐに向かってくるわたしの姿を捉えて眉をひそめた。
わたしがまっすぐに距離を縮めると背筋を伸ばし、口元に小さな笑みを浮かべた。そして、集団から離れて横のスペースに移動する。そしてわたしと向き合った。
「リリィさん、だったかな? ウルフの彼女の」
この声。間違いない。わたしを襲った男の声だ。
陽気な雰囲気を装って笑みを向けてくるカーターにわたしは冷たい視線を投げた。
「しらばっくれないで」
そう言うと、カーターは驚いたかのように眉をあげた。
サラサラとしたダークブラウンの髪に日本人離れした長身と厚い胸板。こうして真正面から見ると日本人と外国人の血が混じったハーフだろうことがよくわかる。片手で空のプラカップを持ち、もう片方の手はポケットに入れているその姿はまるでファッション誌のモデルだ。
「二度もわたしを襲っておいて、どういうつもり?」
「襲った? おれが? なんのことかな」
カーターは首をかしげてみせるも、知らないふりをするつもりはないらしい。瞳は鋭く光っていて、自分がやったことを暗に認めている。
「隠しても無駄よ。バレバレだから。わたしを突き飛ばしたのは、暴行。それによって打撲を負わせたのは、傷害。さらに脅したのは、脅迫。どれも立派な犯罪よ。警察に突き出してもいいのよ」
そう言うと、カーターはおかしそうに鼻先で笑ってから、一転、真面目な顔になった。
「きみは勝手に転んだのさ。それにおれは脅してない。忠告しただけだ。きみのために」
低い声で、まるで秘密を打ち明けるように神妙な声色で言う。
わたしたちが向き合っているスペースには間接照明が当たらず、スピーカーから遠いために音楽の音も小さく、ほかの客たちの喧騒からも少し離れている。そのため、カーターの声色が鮮明に聞こえる。
「ふざけないで。なんであんなことしたの? 理由を聞かせて。ちゃんと」
「理由? だから忠告だって言っただろ。きみのためだけじゃなく、世のため人のためにしたまでだ。お礼してもらいたいくらいだよ」
狭い一角でわたしとカーターは壁に囲まれている。
わたしは壁にもたれて、隣にある棚に肘をかけた。暗い場所でみるとカーターの瞳が鈍くゴールド色にかがやいてみえる。
「なぜあなたがイシ君とわたしに関係あるの? わたしたちが別れたらあなたにどういうメリットがあるの?」
「さあね。ノーコメントだ」
「言わなければ警察に言うわよ。証拠もあるんだから」
わたしはかまをかけた。ほんとうは証拠なんてない。
「ほう。今度はきみがおれを脅すのか。なかなかやるなぁ。さすが、イシとウルフを手玉に取る女だ」
「『脅し』じゃないわよ。脅迫罪における『脅迫』とは生命、身体、自由、名誉または財産に対する害悪の告知だから、告訴することはこれに該当しないもの」
わたしが学生時代に頭に叩きこんだフレーズを披露すると、カーターは声をあげて軽やかに笑った。
「さすが、エリートお嬢様、ご名答。きみ案外面白い子だな」
「くだらない会話をしてる暇はないの。なぜ、わたしたちを別れさせたいのか言ってよ」
「だから、ノーコメントだ。だが……これだけは教えてやるよ」
カーターはわたしとの距離を縮め、わたしの顔をのぞきこむ。暗闇でゴールドに光るタイガーみたい瞳。
そして、まるで恋人たちの戯れのようにさりげなく、わたしを囲うように両手をわたしの後ろの壁に手を置き、それからわたしの耳元に顔を近づけて低く言う。
「イシは、きみが思ってるようなヤツじゃない。いずれ、きみはおれに感謝することになる……」
耳元をくすぐるような声に背中がぞわぞわとして、わたしはカーターの胸を思いきり突き飛ばした。そして、手元にあった紙ナプキンの箱を取ってカーターの顔をめがけて投げつけた。
その箱はひょいと避けたカーターの肩上をすり抜けて向こうの壁に当たった。床に落ちてカラン、と音を立てる。
カーターの頭上からスタバのロゴ入りナプキンが胸元にひらひらと降り注いだ。
そのとき、誰かがカーターの肩を後ろから強く引いて、わたしから離れさせた。カーターはよろめいて床に転倒しそうになる。
「おまえら、なにやってるんだ!」
するり、とわたしとカーターの間に割って入ってきた長身の黒い影。
カーターよりも背が高くて胸板が厚い姿は黒豹のようにみえた。
「ウルフ!」
それは、ウルフだった。
彼は怒りを顔ににじませて、カーターをにらみつけたあと、わたしの体の無事を確認するかのように上から下までグレーの瞳ですばやく眺めた。
ダークグレーのスーツに身を包み、襟元にはシルバーグレーのネクタイをしている姿はビジネスの真っ最中という装いがウルフをいつも以上にスマートに見せている。
「リリィ、大丈夫か? こいつに何かされたのか?」
「ううん、大丈夫。なにもないわ。ちょっとむかついただけ」
カーターは床に散らばったナプキンを集めて手際よくダストボックスに入れてから、髪をかきあげてウルフのほうを向いた。その顔は笑いをこらえているようだ。まるで楽しい場面に遭遇したように、お道化たように目をぐるりと回してみせる。
「おう、ウルフのおでましか」
「おまえら、いつの間に仲良くなってたんだ」
ウルフはポケットに手を突っ込み、不思議そうにカーターとわたしを交互にみた。
「仲良くないわよ。偶然ここで会って、ちょっと言い合いになっただけ」
ウルフは納得がいかないようで、さらに目線で返答を求めてきたが、わたしもカーターも何も言わない。数秒間、沈黙が満ちる。
ポップで楽し気な音楽が辺りを包み込んでいる。
「じゃあ、わたしは帰るわ」
わたしがそう言って踵を返すと、ウルフも後ろからついてきた。
少し歩を進めてから、わたしは途端にくるり、と振り返って来た道を戻り、カーターに近づいた。カーターは面白そうに眉をあげる。
わたしはカーターと距離を縮めてから、その耳元に顔に近づける。
「いいことを教えてあげる。イシ君とは、別れたわ」
別れたわ、というところをゆっくりと、はっきりと発音した。
カーターが驚いた表情をした瞬間、わたしはカーターに背を向けて足早に店から出た。