第11話 大切にされたければ積極的になってはいけません
文字数 6,225文字
せまくて薄暗い室内。
ここは貯蔵庫だろうか。あちらこちらに段ボールが積み上げられている。
大音量の音楽から逃れることができて耳が楽になった代わりに、自分の心音が聞こえてきた。
ウルフの後ろ姿をこうして近くでみると、普通の男性よりもずっと広い背中だと気づかされる
。大好きな背中。
「あの……用ってなに?」
ウルフは壁際にあるキャビネットを開けて中を確認しているようだ。まるで周囲の安全を確認するかのように、壁際にあるものにひととおり目を通しながら、豹のようにしなやかに動いている。
「こないだのドタキャンの詫びだ」
「え」
ウルフは大型冷蔵庫からエビアンの小さなボトルを取り出すと、蓋を開けてわたしに突き出した。
「飲めよ」
「水? ありがとう」
喉が渇いていた。
ペットボトルを受け取ってすぐに口にふくむと、喉を通る冷たい水があまりにも気持ちよくて、ごくごくと飲んだ。そして、壁にもたれた。ひんやりとした冷たい壁に背中を冷やされてきもちがいい。周囲の壁にはアンディ・ウォーホルの絵が何枚も貼られている。
「顔、真っ赤だな」
「熱いから……」
「酒、弱いんじゃねぇの?」
「……うん。じつはね、ほとんど飲めないの。もしかしてウルフ、わたしを助けてくれたの? ありがとう」
「いや、そういうわけじゃない」
そう言ってウルフは棚にもたれて腕を組んだ。そして、すこし目を細めてわたしを見る。
「こないだ、悪かったな。本、持ってきてたんだろ?」
「え、そんなの、いいよ。急用でもあったんでしょ?」
いつも傲慢な男に謝られると、なんだかきまりが悪い。
「いや。べつに」
「べつにってなによ!?」
言ってから、しまったと思った。せっかくのチャンスなのだから、ちゃんとしたふるまいをしたい。ウルフにちゃんと恋に落ちてもらいたい。わたしみたいに、ウルフにも胸をときめかせてほしい。だから、これ以上は問い詰めないようにしよう。
わたしは口をつぐんだ。ウルフと会話をするときには聞き役になると決めてたんだ。
男性と女性は同じ人間だけど、まったく違う思考回路をする。男女の間柄ではとくにその違いが顕著に出る。なぜなら、体のつくりが違うからだ。男性と女性が恋愛感情で結びつく場合には、男性は「入れる側」で女性は「入れられる側」になる。それが本能に基づいたもっとも自然で正しい関係なのだ。それは会話においても同じ。女性は男性の話を聞くことで彼を受け容れていると感じさせることが恋愛関係の自然な姿なのだ。自然な姿であるとき、恋は自然と育まれることになり、その結果、女性は男性に大切にされることになる。
壁を隔てた向こうからは、ズンズンと地響きのようなクラブミュージックが流れてくる。
ウルフは窮屈そうに肩を回してから、まくり上げていたシャツの袖を肘まであげた。筋肉質な腕の露出が増え、わたしの目が勝手に追ってしまう。いつもと同じグレーのシャツに、いつもと違う黒いジーンズを合わせている。けだるげに壁にもたれる姿は、ラルフローレンのモデルのように決まっている。アルコールのせいだろうか。夢の中みたいに頭がふわふわするし、足にもあまり力がはいらない。
「……ここ、熱いな」
「……うん。熱いね」
沈黙。
聞き役になると、相手が話し上手でない限り、沈黙に襲われてしまうものだ。耐えかねて、わたしはなにか質問することを考えた。
「……このクラブにはよく来るの? ウルフも踊ったりするの?」
「いや。初めてだ。高校ンときの部活の先輩に頼まれて、裏方の手伝いに来てただけだ」
「うらかたって?」
「酒の準備とか、掃除とか、喧嘩の仲裁とかいろいろ。便利屋みたいなもんさ」
「喧嘩の仲裁? クラブって喧嘩が起きたりするの? 女同士の言い争いみたいな?」
「違うよ。男同士のだ。島の権力争いみたいなもん」
「そ、そうなんだ。怖いね……」と言うと、ウルフはおかしそうに小さく笑った。
ウルフはまたバイトだったんだ。わたしがのんきに遊んでいるとき、ウルフははいつも労働をしている。身体を張って生活をしている。格差社会。なんだか胸が痛んだ。
「おまえが来てるなんて知らなかった。ゴウって言ったっけ? あいつに誘われて?」
「ちがうちがう。ゴウ君とはたまたま会って、ちょっとしゃべってただけだよ」
「酔わされてたようにみえたけどな」
「……え」
「あいつはおまえに気があるんだろう?」
「知らないわ。ただ、美術館に誘ってくれただけよ」
「美術館か。さすがお坊ちゃんは上品なデートをするんだな」
「まだデートなんかしてないわよ。ただ、ゴウ君のお父様の関係でチケットを沢山持ってるからって」
「おとーさまねぇ」と言ってウルフが苦い顔をした。「ああいう気取ったやつこそ、裏で汚ねぇこと考えてるもんさ」
「ゴウ君のことが嫌いなの?」
「いや。あいつのことなんか興味ない。ただ、おまえ、おれが行かなかったらどうなってたか……」
そう言われて、ふいに背筋が寒くなった。あれ以上カクテルを飲んでいたら、歩いて帰れなかったかもしれない。お酒を飲み過ぎた経験がないから、よくわからないのだ。いま自分が酔っぱらっているのかどうかも、よくわからない。けれど、頭の奥がクラクラするのは確かだ。
ウルフと目が合っているから。
いつも大学のカフェや学食で遠くからこっそりと眺めていた男が、いま、目の前にいるから。
「リリィって、ほんとに世間知らずのお嬢様って感じだよな」
「なによ、それ」
「おまえはぜんぜん世間のことがわかってないって言ってるんだ」
「世間ってなによ。わたしがお嬢様なのは否定しないけど。わたしたちお嬢だって世間のひとつなの。そっちこそ、さいきん大学で見かけなかったけど、ちゃんと授業出てるの? また女と遊んでるんじゃないの?」
そう言ってわたしが笑うと、棚にもたれていたウルフは身を起こし、わたしの隣に来て、わたしの手からエビアンのボトルを取った。
そして、キャップを開けて、ごくごくと水を飲む。喉ぼとけが大きく動く。唇の脇から流れ落ちる水滴を手の甲でぬぐう。その顔に表情はなかった。
関節キスだ……。なんて中高生みたいなことを考えてしまって、内心で小さく笑ってしまった。ウルフにとっては、きっと、日常茶飯事なのよ。気にすることじゃあない。けれど、わたしの目線はウルフの唇を追ってしまう。
ウルフはペットボトルの水を飲み干して蓋を閉じ、わたしの隣に並んで、「熱いな」と言って壁にもたれた。そして、
「おれの両親は、死んだんだ。おれが中学生のころに」と唐突に言った。
「え……っ」
思わずウルフの顔をみる。ウルフは前を向いたまま、どこか遠くを見つめていた。指先でペットボトルの首をもって回している。
「それからは叔父さんに育てられた。父親の弟にあたる人。っていっても血はつながってないけどな」
いきなりの話で、わたしは言葉に詰まってしまった。
大学一モテモテの有名人で、耳を塞いでいても彼の噂話が聞こえてくるというのに、彼の生い立ちについて聞いたのは初めてだ。
「おれの親は借金まみれだった……。死んだあとはなんも残ってなくて、叔父さんが生活の面倒をみてくれた」
「へえ……」
気の利いたセリフが出てこない。
ウルフはしばらく黙っていたが、ゆっくりと長い脚を組み替えた。大きな足に馴染んだ黒い革靴の先はかなりすり減っている。ウルフはその靴先を眺めながら、言った。
「その叔父さんが一昨年に癌になって入退院を繰り返してるんだ。こないだ容態が急変したって病院から連絡があって、それで行けなかったんだ。あの日」
そして、わたしの顔をみる。
目が合う。
自信満々な態度で傲慢な男の目が、いつもよりも寂し気にみえるのは、この倉庫が薄暗いせいだろうか。喉の奥になにかが詰まった気がする。息が苦しい。けど、何か言わなくては。
「そうだったんだ……。だからバイトいっぱいしてたんだ」
「生活費も必要だし、病院代もかかるからな」
「知らなかった……」
「だろうな」
「え……」
「誰にも言ってないから」
そう言って、ウルフはまた靴先に目線を落とした。
「どうして……わたしに?」
「さあな……」
どうしてわたしだけに……?
それって、わたしに気があるってこと? 気があるから、わたしに教えてくれたの?
わたしの勘違い? わたし、いま、酔ってるの?
ウルフの両親が亡くなったとか、唯一育ててくれた叔父さんが癌だとか、情報が多すぎて処理できない。いまウルフから聞いた事実に理解が追いつかない。
それに、誰にも言っていないことをわたしにだけ言ってくれた意味も、冷静に考えられない。もしかして、ウルフもわたしのことを……?
胸の鼓動がどんどん大きくなっていく。
わたしはウルフのことが好きなんだ。ずっと前から、好きだった。出会ったときから、ずっと。理由はわからないけれど、誰よりも。このきもちを抑えきれなくなっている。
「ウルフ……わたし……ウルフのことが」
「勘違いすんなよ」
言いかけたわたしの言葉を冷淡な声が遮った。
信じられない。
顔をあげると、ウルフの目があった。すこし眉を寄せて、口元をゆがめている。
「な……なにを?」
「べつに、意味はないから。おれがいま言ったことに」
「……そう?」
「ああ。ただ、待ち合わせをドタキャンした理由を説明してやっただけ。礼儀ってやつ? おまえたちの世界の紳士みたいに、礼儀をつくしてやっただけだ。べつに、おまえだけが特別ってわけじゃない」
胸を刺された気分だった。深く。鋭く。ぐっさりと。
勝手に気分が盛り上がって、告白しかけていたわたしを、ウルフはバッサリと切り捨てた。まるでわたしのハートを刀で切り捨てるかのように。
「そ、そ……そんなこと、わかってるわよ……! そっちこそ、うぬぼれないでよね。同情ひこうったって無駄よ」
「同情?」
「そうよ。あやうく同情しかかったわ。ほかの女たちには効いたのかもしれないけど、わたしはそんな安い手には乗らないわ!」
アルコールのせいなのか、体が熱くて、頭が熱くて、胸が苦しくて。
もう何を言っているのかわからなかった。
恋されるルールなんて、くそくらえ。恋なんて、どうでもいい。
どうでもいいから、この苦しさから解放されたかった。
「同情なんて求めてねぇよ。そもそも、おまえらには、おれのことはわからない」
「わかるわよ。わたしたちだって、それなりに苦労してるもの!」
「いや、わからないね。おまえのゴウお坊ちゃんは、洗い場で何時間も何百枚もの皿を洗ったことがあるのか? 皿を割ったらすぐに親方に殴られるんだぜ? 地べたに這いつくばって働かないと生活できないし、飯も食えないんだ。そういう世界に身を置いたことはあるのか?」
「ゴウ君はそういう苦労は知らないかもしれない。でも、わたしにはわかるわ! ウルフのきもち。想像できるもん!」というと、ウルフがフッと鼻先で笑った。
「想像ねぇ……。おまえがおれらみたいな生活をしたら、そのキレイなネイルなんか一瞬で剥げるぜ? そのキレイな服とか、いい匂いがする香水なんかも、おれには買ってやれない。おれとおまえは、全然ちがうんだ」
「違わないわ! ちゃんと話せばわかりあえるわよ」
「そう簡単じゃない」
「じゃあなんでわざわざこんな場所に連れてきたの? なんで辛気臭いこと聞かされなきゃなんないの?! なんでほかの女には言わないのよ!?」
ウルフの表情が変わった。グレーの瞳に野生の狼みたいな鋭い光が宿ったようにみえた。
「あいつと一緒にいたほうが安全だったかもな」
「え……っ!」
その瞬間、視界が真っ暗になった。
つぎの瞬間、唇があたたかいものに覆われた。熱くて、なめらかで、すこし湿っていて、やわらかいもの。
それがウルフの唇だと気づいて、胸の奥で花火が打ちあがったような衝撃を受けた。背筋にふるえが走る。
「……んっ」
思わず逃げようとすると、背中を壁に押し付けられ、ウルフの大きな太ももで足の動きを阻まれた。カラン、と空のペットボトルが床に落ちた音がする。
そして、わたしの唇に、力強く、ウルフの唇が押しつけられた。想像以上にやわらかい唇。
角度を変えて何度も貪るように唇を重ねてくる。
必死で息をしようとして開けた唇の隙間から、ウルフの舌が入り込んできた。肉厚な舌が、わたしの口内をぐるりと巡る。口内の粘膜を隙間なく辿っていく。体の中心に灯された火がどんどん燃えあがっていく。
こんなの初めて。
こんなにも力強くて、強引なキスは初めてだった。
今まで付き合った男性は皆、キスをする前に『キスしてもいい?』と聞いてきた。そして、壊れ物を扱うようにやさして穏やかに唇を合わせたのだった。
でも、いましているキスは全然違う。獣に襲われたような衝撃と恐怖と不安と、胸が躍るような悦びと快感と、それから、体の奥から湧き上がってくる衝動。これはわたしの欲望……?
頭の中が霞がかっていく。
わたしも舌を動かし、ウルフの舌と絡み合わせると、ウルフは喉の奥でうめいた。
ウルフの舌の動きに合わせて、わたしの舌も動くと、舌の周りから甘くて苦い唾液があふれ出した。絡み合う唇と、熱い吐息とかすかなお酒の匂い。目の前のウルフからはブランデーのような男らしい匂いが立ち上ってくる。わたしたちは目を合わせたまま口づけていた。グレーの瞳は近くでみるとかすかにゴールドっぽくも見える。
足の間が熱い。
体の中心がじんじんと痺れ、思わず下半身を揺らすと、ウルフが下腹部を押し付けてきた。固いものが押しつけられた。互いの衣服の布越しにもわかるほどの熱さを秘めていた。そこに自然とわたしも下腹部を押し付けると、ふたり合わせて呻いた。
わたしは両手をウルフの大きな背中に回し、彼をぎゅっと抱きしめた。強く抱きしめた。もっと抱きしめたい。そう思った。もっと近づきたい。ふたりの間を阻むもの全てを取り去って、ひとつになりたい。
そう思った瞬間、いきなり、ウルフがわたしから離れた。いや、突き放したと言ったほうが正確だ。
とつぜん支えを失ったわたしは、膝から崩れ落ちそうになった。
ウルフがわたしの脇を抱えて立ち上がらせた。
そして、まるで汚いものから逃げるように、わたしからまた一歩下がった。
「くそ……っ」
舌打ちの音がして見上げると、頬を赤く染めたウルフが両手を握りしめていた。濃い眉が寄せられ、ぎらぎらと光る目はわたしではない何かを見つめている。怒りの形相だ。
「こんなこと……ダメだ」しわがれた声。
「ウルフ……?」
「おれに近づくな……!」
「え」
「おれとおまえは違う」
ウルフはそう言って、わたしに背を向けた。
足元に転がっていたペットボトルを蹴り飛ばすと、それは対角線上にあった段ボールにぶつかった。
そして、ウルフはドアを開けて出ていった。
ドアの隙間から一瞬だけクラブミュージックの大音量が入り込んできたけど、ドアが閉まったことでまた遠のいた。
そして、薄暗い貯蔵庫にひとり、わたしだけが残された。
わたしは唇の脇から流れ落ちる唾液を手でぬぐった。
わたしたち、なにをしたの…?
ウルフ……どうして……? なぜ怒って出ていったの……?
違うって、何が違うの?
靄がかかったままの頭で必死に考えようとするも、こたえは出ない。
わたしはしばらくの間、そこに立ち尽くしていた。
ここは貯蔵庫だろうか。あちらこちらに段ボールが積み上げられている。
大音量の音楽から逃れることができて耳が楽になった代わりに、自分の心音が聞こえてきた。
ウルフの後ろ姿をこうして近くでみると、普通の男性よりもずっと広い背中だと気づかされる
。大好きな背中。
「あの……用ってなに?」
ウルフは壁際にあるキャビネットを開けて中を確認しているようだ。まるで周囲の安全を確認するかのように、壁際にあるものにひととおり目を通しながら、豹のようにしなやかに動いている。
「こないだのドタキャンの詫びだ」
「え」
ウルフは大型冷蔵庫からエビアンの小さなボトルを取り出すと、蓋を開けてわたしに突き出した。
「飲めよ」
「水? ありがとう」
喉が渇いていた。
ペットボトルを受け取ってすぐに口にふくむと、喉を通る冷たい水があまりにも気持ちよくて、ごくごくと飲んだ。そして、壁にもたれた。ひんやりとした冷たい壁に背中を冷やされてきもちがいい。周囲の壁にはアンディ・ウォーホルの絵が何枚も貼られている。
「顔、真っ赤だな」
「熱いから……」
「酒、弱いんじゃねぇの?」
「……うん。じつはね、ほとんど飲めないの。もしかしてウルフ、わたしを助けてくれたの? ありがとう」
「いや、そういうわけじゃない」
そう言ってウルフは棚にもたれて腕を組んだ。そして、すこし目を細めてわたしを見る。
「こないだ、悪かったな。本、持ってきてたんだろ?」
「え、そんなの、いいよ。急用でもあったんでしょ?」
いつも傲慢な男に謝られると、なんだかきまりが悪い。
「いや。べつに」
「べつにってなによ!?」
言ってから、しまったと思った。せっかくのチャンスなのだから、ちゃんとしたふるまいをしたい。ウルフにちゃんと恋に落ちてもらいたい。わたしみたいに、ウルフにも胸をときめかせてほしい。だから、これ以上は問い詰めないようにしよう。
わたしは口をつぐんだ。ウルフと会話をするときには聞き役になると決めてたんだ。
男性と女性は同じ人間だけど、まったく違う思考回路をする。男女の間柄ではとくにその違いが顕著に出る。なぜなら、体のつくりが違うからだ。男性と女性が恋愛感情で結びつく場合には、男性は「入れる側」で女性は「入れられる側」になる。それが本能に基づいたもっとも自然で正しい関係なのだ。それは会話においても同じ。女性は男性の話を聞くことで彼を受け容れていると感じさせることが恋愛関係の自然な姿なのだ。自然な姿であるとき、恋は自然と育まれることになり、その結果、女性は男性に大切にされることになる。
壁を隔てた向こうからは、ズンズンと地響きのようなクラブミュージックが流れてくる。
ウルフは窮屈そうに肩を回してから、まくり上げていたシャツの袖を肘まであげた。筋肉質な腕の露出が増え、わたしの目が勝手に追ってしまう。いつもと同じグレーのシャツに、いつもと違う黒いジーンズを合わせている。けだるげに壁にもたれる姿は、ラルフローレンのモデルのように決まっている。アルコールのせいだろうか。夢の中みたいに頭がふわふわするし、足にもあまり力がはいらない。
「……ここ、熱いな」
「……うん。熱いね」
沈黙。
聞き役になると、相手が話し上手でない限り、沈黙に襲われてしまうものだ。耐えかねて、わたしはなにか質問することを考えた。
「……このクラブにはよく来るの? ウルフも踊ったりするの?」
「いや。初めてだ。高校ンときの部活の先輩に頼まれて、裏方の手伝いに来てただけだ」
「うらかたって?」
「酒の準備とか、掃除とか、喧嘩の仲裁とかいろいろ。便利屋みたいなもんさ」
「喧嘩の仲裁? クラブって喧嘩が起きたりするの? 女同士の言い争いみたいな?」
「違うよ。男同士のだ。島の権力争いみたいなもん」
「そ、そうなんだ。怖いね……」と言うと、ウルフはおかしそうに小さく笑った。
ウルフはまたバイトだったんだ。わたしがのんきに遊んでいるとき、ウルフははいつも労働をしている。身体を張って生活をしている。格差社会。なんだか胸が痛んだ。
「おまえが来てるなんて知らなかった。ゴウって言ったっけ? あいつに誘われて?」
「ちがうちがう。ゴウ君とはたまたま会って、ちょっとしゃべってただけだよ」
「酔わされてたようにみえたけどな」
「……え」
「あいつはおまえに気があるんだろう?」
「知らないわ。ただ、美術館に誘ってくれただけよ」
「美術館か。さすがお坊ちゃんは上品なデートをするんだな」
「まだデートなんかしてないわよ。ただ、ゴウ君のお父様の関係でチケットを沢山持ってるからって」
「おとーさまねぇ」と言ってウルフが苦い顔をした。「ああいう気取ったやつこそ、裏で汚ねぇこと考えてるもんさ」
「ゴウ君のことが嫌いなの?」
「いや。あいつのことなんか興味ない。ただ、おまえ、おれが行かなかったらどうなってたか……」
そう言われて、ふいに背筋が寒くなった。あれ以上カクテルを飲んでいたら、歩いて帰れなかったかもしれない。お酒を飲み過ぎた経験がないから、よくわからないのだ。いま自分が酔っぱらっているのかどうかも、よくわからない。けれど、頭の奥がクラクラするのは確かだ。
ウルフと目が合っているから。
いつも大学のカフェや学食で遠くからこっそりと眺めていた男が、いま、目の前にいるから。
「リリィって、ほんとに世間知らずのお嬢様って感じだよな」
「なによ、それ」
「おまえはぜんぜん世間のことがわかってないって言ってるんだ」
「世間ってなによ。わたしがお嬢様なのは否定しないけど。わたしたちお嬢だって世間のひとつなの。そっちこそ、さいきん大学で見かけなかったけど、ちゃんと授業出てるの? また女と遊んでるんじゃないの?」
そう言ってわたしが笑うと、棚にもたれていたウルフは身を起こし、わたしの隣に来て、わたしの手からエビアンのボトルを取った。
そして、キャップを開けて、ごくごくと水を飲む。喉ぼとけが大きく動く。唇の脇から流れ落ちる水滴を手の甲でぬぐう。その顔に表情はなかった。
関節キスだ……。なんて中高生みたいなことを考えてしまって、内心で小さく笑ってしまった。ウルフにとっては、きっと、日常茶飯事なのよ。気にすることじゃあない。けれど、わたしの目線はウルフの唇を追ってしまう。
ウルフはペットボトルの水を飲み干して蓋を閉じ、わたしの隣に並んで、「熱いな」と言って壁にもたれた。そして、
「おれの両親は、死んだんだ。おれが中学生のころに」と唐突に言った。
「え……っ」
思わずウルフの顔をみる。ウルフは前を向いたまま、どこか遠くを見つめていた。指先でペットボトルの首をもって回している。
「それからは叔父さんに育てられた。父親の弟にあたる人。っていっても血はつながってないけどな」
いきなりの話で、わたしは言葉に詰まってしまった。
大学一モテモテの有名人で、耳を塞いでいても彼の噂話が聞こえてくるというのに、彼の生い立ちについて聞いたのは初めてだ。
「おれの親は借金まみれだった……。死んだあとはなんも残ってなくて、叔父さんが生活の面倒をみてくれた」
「へえ……」
気の利いたセリフが出てこない。
ウルフはしばらく黙っていたが、ゆっくりと長い脚を組み替えた。大きな足に馴染んだ黒い革靴の先はかなりすり減っている。ウルフはその靴先を眺めながら、言った。
「その叔父さんが一昨年に癌になって入退院を繰り返してるんだ。こないだ容態が急変したって病院から連絡があって、それで行けなかったんだ。あの日」
そして、わたしの顔をみる。
目が合う。
自信満々な態度で傲慢な男の目が、いつもよりも寂し気にみえるのは、この倉庫が薄暗いせいだろうか。喉の奥になにかが詰まった気がする。息が苦しい。けど、何か言わなくては。
「そうだったんだ……。だからバイトいっぱいしてたんだ」
「生活費も必要だし、病院代もかかるからな」
「知らなかった……」
「だろうな」
「え……」
「誰にも言ってないから」
そう言って、ウルフはまた靴先に目線を落とした。
「どうして……わたしに?」
「さあな……」
どうしてわたしだけに……?
それって、わたしに気があるってこと? 気があるから、わたしに教えてくれたの?
わたしの勘違い? わたし、いま、酔ってるの?
ウルフの両親が亡くなったとか、唯一育ててくれた叔父さんが癌だとか、情報が多すぎて処理できない。いまウルフから聞いた事実に理解が追いつかない。
それに、誰にも言っていないことをわたしにだけ言ってくれた意味も、冷静に考えられない。もしかして、ウルフもわたしのことを……?
胸の鼓動がどんどん大きくなっていく。
わたしはウルフのことが好きなんだ。ずっと前から、好きだった。出会ったときから、ずっと。理由はわからないけれど、誰よりも。このきもちを抑えきれなくなっている。
「ウルフ……わたし……ウルフのことが」
「勘違いすんなよ」
言いかけたわたしの言葉を冷淡な声が遮った。
信じられない。
顔をあげると、ウルフの目があった。すこし眉を寄せて、口元をゆがめている。
「な……なにを?」
「べつに、意味はないから。おれがいま言ったことに」
「……そう?」
「ああ。ただ、待ち合わせをドタキャンした理由を説明してやっただけ。礼儀ってやつ? おまえたちの世界の紳士みたいに、礼儀をつくしてやっただけだ。べつに、おまえだけが特別ってわけじゃない」
胸を刺された気分だった。深く。鋭く。ぐっさりと。
勝手に気分が盛り上がって、告白しかけていたわたしを、ウルフはバッサリと切り捨てた。まるでわたしのハートを刀で切り捨てるかのように。
「そ、そ……そんなこと、わかってるわよ……! そっちこそ、うぬぼれないでよね。同情ひこうったって無駄よ」
「同情?」
「そうよ。あやうく同情しかかったわ。ほかの女たちには効いたのかもしれないけど、わたしはそんな安い手には乗らないわ!」
アルコールのせいなのか、体が熱くて、頭が熱くて、胸が苦しくて。
もう何を言っているのかわからなかった。
恋されるルールなんて、くそくらえ。恋なんて、どうでもいい。
どうでもいいから、この苦しさから解放されたかった。
「同情なんて求めてねぇよ。そもそも、おまえらには、おれのことはわからない」
「わかるわよ。わたしたちだって、それなりに苦労してるもの!」
「いや、わからないね。おまえのゴウお坊ちゃんは、洗い場で何時間も何百枚もの皿を洗ったことがあるのか? 皿を割ったらすぐに親方に殴られるんだぜ? 地べたに這いつくばって働かないと生活できないし、飯も食えないんだ。そういう世界に身を置いたことはあるのか?」
「ゴウ君はそういう苦労は知らないかもしれない。でも、わたしにはわかるわ! ウルフのきもち。想像できるもん!」というと、ウルフがフッと鼻先で笑った。
「想像ねぇ……。おまえがおれらみたいな生活をしたら、そのキレイなネイルなんか一瞬で剥げるぜ? そのキレイな服とか、いい匂いがする香水なんかも、おれには買ってやれない。おれとおまえは、全然ちがうんだ」
「違わないわ! ちゃんと話せばわかりあえるわよ」
「そう簡単じゃない」
「じゃあなんでわざわざこんな場所に連れてきたの? なんで辛気臭いこと聞かされなきゃなんないの?! なんでほかの女には言わないのよ!?」
ウルフの表情が変わった。グレーの瞳に野生の狼みたいな鋭い光が宿ったようにみえた。
「あいつと一緒にいたほうが安全だったかもな」
「え……っ!」
その瞬間、視界が真っ暗になった。
つぎの瞬間、唇があたたかいものに覆われた。熱くて、なめらかで、すこし湿っていて、やわらかいもの。
それがウルフの唇だと気づいて、胸の奥で花火が打ちあがったような衝撃を受けた。背筋にふるえが走る。
「……んっ」
思わず逃げようとすると、背中を壁に押し付けられ、ウルフの大きな太ももで足の動きを阻まれた。カラン、と空のペットボトルが床に落ちた音がする。
そして、わたしの唇に、力強く、ウルフの唇が押しつけられた。想像以上にやわらかい唇。
角度を変えて何度も貪るように唇を重ねてくる。
必死で息をしようとして開けた唇の隙間から、ウルフの舌が入り込んできた。肉厚な舌が、わたしの口内をぐるりと巡る。口内の粘膜を隙間なく辿っていく。体の中心に灯された火がどんどん燃えあがっていく。
こんなの初めて。
こんなにも力強くて、強引なキスは初めてだった。
今まで付き合った男性は皆、キスをする前に『キスしてもいい?』と聞いてきた。そして、壊れ物を扱うようにやさして穏やかに唇を合わせたのだった。
でも、いましているキスは全然違う。獣に襲われたような衝撃と恐怖と不安と、胸が躍るような悦びと快感と、それから、体の奥から湧き上がってくる衝動。これはわたしの欲望……?
頭の中が霞がかっていく。
わたしも舌を動かし、ウルフの舌と絡み合わせると、ウルフは喉の奥でうめいた。
ウルフの舌の動きに合わせて、わたしの舌も動くと、舌の周りから甘くて苦い唾液があふれ出した。絡み合う唇と、熱い吐息とかすかなお酒の匂い。目の前のウルフからはブランデーのような男らしい匂いが立ち上ってくる。わたしたちは目を合わせたまま口づけていた。グレーの瞳は近くでみるとかすかにゴールドっぽくも見える。
足の間が熱い。
体の中心がじんじんと痺れ、思わず下半身を揺らすと、ウルフが下腹部を押し付けてきた。固いものが押しつけられた。互いの衣服の布越しにもわかるほどの熱さを秘めていた。そこに自然とわたしも下腹部を押し付けると、ふたり合わせて呻いた。
わたしは両手をウルフの大きな背中に回し、彼をぎゅっと抱きしめた。強く抱きしめた。もっと抱きしめたい。そう思った。もっと近づきたい。ふたりの間を阻むもの全てを取り去って、ひとつになりたい。
そう思った瞬間、いきなり、ウルフがわたしから離れた。いや、突き放したと言ったほうが正確だ。
とつぜん支えを失ったわたしは、膝から崩れ落ちそうになった。
ウルフがわたしの脇を抱えて立ち上がらせた。
そして、まるで汚いものから逃げるように、わたしからまた一歩下がった。
「くそ……っ」
舌打ちの音がして見上げると、頬を赤く染めたウルフが両手を握りしめていた。濃い眉が寄せられ、ぎらぎらと光る目はわたしではない何かを見つめている。怒りの形相だ。
「こんなこと……ダメだ」しわがれた声。
「ウルフ……?」
「おれに近づくな……!」
「え」
「おれとおまえは違う」
ウルフはそう言って、わたしに背を向けた。
足元に転がっていたペットボトルを蹴り飛ばすと、それは対角線上にあった段ボールにぶつかった。
そして、ウルフはドアを開けて出ていった。
ドアの隙間から一瞬だけクラブミュージックの大音量が入り込んできたけど、ドアが閉まったことでまた遠のいた。
そして、薄暗い貯蔵庫にひとり、わたしだけが残された。
わたしは唇の脇から流れ落ちる唾液を手でぬぐった。
わたしたち、なにをしたの…?
ウルフ……どうして……? なぜ怒って出ていったの……?
違うって、何が違うの?
靄がかかったままの頭で必死に考えようとするも、こたえは出ない。
わたしはしばらくの間、そこに立ち尽くしていた。