第44話 恋のルールズはしあわせの杖でもあり断罪でもある

文字数 2,332文字

「元気? 青山に新しいカフェができたって知ってる? 行ってみない?」
 金曜日の夕方、何度もイシ君から着信があったから出てみると、唐突にイシ君がそう言った。
 別れたいという意思を伝えたにも関わらずかけてきた電話なので、よほど重要なことなのかもしれないと思って出たのに、なにごともなかったかのように陽気な声だったから拍子抜けしてしまう。
「そろそろ機嫌直ったかなと思ってさ」
「機嫌?」
 機嫌なんて悪くない。機嫌が悪くて別れたくなったわけではない。結婚観から人生観、すべての相性が合わないと思ったから別れを選んだわけで、それは丁寧に説明済みだ。
 けれど、イシ君はわたしが何かに怒って別れを切り出したのだと思っている。いや、そういうことにしたいだけなのかもしれない。彼の都合の良い方向に進めたいという雰囲気が伝わってくる。
「リリィが怒るなんて珍しいからね。きっとぼくの何かがすごく気に障ったんだろうけど、優しいリリィのことだから言わないんだろう。だからぼくもあえてそこは聞かないでおくよ」
「怒ってるんじゃなくて、冷静に考えて決めたの。話したと思うけれど、真面目に考えた結果なのよ」
「了解。また話したくなったら電話してよ。いつでもいいからさ」
 何が了解なのかわからないけど、イシ君はそう言ってわたしの話を遮った。わたしを諦めないつもりなのだ。
 そうだろう。わたしと結婚すれば、何億、いや、何十億もの利益になるのだもの。いや、それ以上の額が将来的に動くことになる。石油会社と商社が連携すると大きな事業も生まれる。
 わたしとの結婚はイシ君にとって最大の利益になる。現状のイシ君が今後どんなにがんばって一生働いても手に入れられない額の財産がわたしと結婚するだけでイシ君の家に入ることになるのだから。そう簡単には諦めないだろう。
「あのね、イシ君、わたし本気で、結婚のお断りをしたの。イシ君に問題があるわけじゃなくて、誰とも結婚したくないと思ってるの」
「じゃあ、結婚のことはとりあえず置いておいて、とりあえず母と話してみたらどうだろう? うちの家のこともまだ知らないだろうし、話せば結婚したくなるかもしれないからさ。母はいい人だからリリィと気が合うと思うよ。それに、母の行きつけの店は料理も美味しいし」
「でも・・・・・・」
「あ、返事はまた今度でいいよ。今日はタイミングが悪かったみたいだから、また気分が良いときに連絡して。女性はほら、機嫌に周期があるっていうし。また気分が良いときに話そう。じゃあね」
 唐突にかかってきた電話は唐突に切れた。
 生理周期のせいにされて、胸がむかむかする。イシ君ってこんなに嫌なやつだったかしら? 
 別れ話が出たあと、豹変する男がいると聞いたことがあるけれど、人は崖っぷちに立ったときにようやく本性が出るものだ。ようやくイシ君の本性が見えてきたような気がして、胸の奥が苛立たしさと同時に清涼感をおぼえた。
 思えばイシ君とはお互いに本音を出さない付き合いをつづけていた。愛の言葉も肉体関係もない、それは恋愛とはいえないものだった。将来を誓い合ったこともなければ、価値観を擦り合わせたこともなく、そもそも付き合っていたとはいえない気もするから、簡単に別れられると思っていた。それはわたしにも非があるわけで、いままでいい人を演じていたわたしが突然別れを切り出して納得してもらえると思ったわたしが甘かったのかもしれない。イシ君だけを責めるわけにはいかない。
 もう一度、きちんと話そう。わたしの価値観、人生観とイシ君との結婚は相容れないことをしっかりと説明して納得してもらおう、とわたしは思った。


 残業を終えてひとり家路を急ぐ。
 真っ暗な夜空は凍りそうに冷たい空気に満たされていて、今夜は雪が降りそうだ。
 わたしはマンションの扉の前に立てかけられているカスミソウの花束のことを思った。
 毎晩、扉にもたれてわたしの帰宅を待ちわびるようなカスミソウの真っ白い花束が、いつのまにか、毎日仕事で疲れた心の支えになっていた。
 20代後半、独身、ひとり暮らしという状況が寂しくないといったら嘘になる。誰かが待っててくれたらいいと思ったこともある。けれど、遊びでセックスしたことを詫びる男の道具にすぎない花束に癒やされてどうするの? ましてや、それを心の支えにして生きているなんて。
 だめだめ。
 わたしは目を閉じて首をふった。
 ウルフとの縁は切った。完全に断ち切ったはずなのだ。
 もうこれ以上、報われない恋に振り回されないために、彼を完全に無視すると決めたのに。
 それなのに、心の奥でまだ無意識に彼の好意を求めている自分が情けない。
 情けない。
 情けなくてたまらないのに、今夜もきっと深夜12時頃になると、電柱の脇に姿を現すだろうウルフのことを思うと胸がはずむ。ときめく。わくわくする。彼がわたしを求めていると思うだけで、胸の中に蝶が舞う。
 
 眠る前に部屋の明かりを消してから、そっと1センチだけカーテンをあけて彼の姿を確認した。
 グレーのスーツ、手になにか小さな袋をもっているようにみえる。買い物のついでか何かだろうか。
 わたしの姿を認め、訴えるようにわたしを見つめる黒い瞳は、暗闇でもかがやいてみえる。
 だけど、わたしは彼を無視する。無視すると決めたのだ。
 これは、わたしが幸せになるためのルールなのだ。
 今までルールを破ってきた自分への断罪。
 そして、これは彼にとっての断罪でもある。
 いままでどおり遊びで抱いた女に謝罪すれば、彼としては罪悪感が消えてすっきりするだろうけど、そうはさせない。
 罪悪感で苦しめばいい。
 
 わたしはカーテンを閉じてベッドもぐりこみ、すぐに眠った。
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登場人物紹介

ウルフ 

男。大学三年生。リリィがひと目ぼれした相手。

リリィ 

女。大学四年生。このお話の主人公。

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