第45話 男女の実質的平等に関する考察と働く女性の負担について

文字数 1,792文字

 その後、イシ君からは数日に一度の頻度でたわいもないメールが届くようになった。
『今日は寒かったね。リリィは風邪ひきやすいからあたたかくしてすごすんだよ』という父親みたいな文面の日もあれば、『昨年一緒に行った銀座のラデュレ、美味しかったね。今年のクリスマスは予定入ってるの?」という過去を懐かしく思い出させてデートに誘う戦法の文面の日もあった。
 それらのほとんどのメールを無視しているわたしの反応を無視して送付し続けてくるイシ君に対して別れて正解だったという思いが日々強まってきた。

 残業を終えて、丸の内の黒い夜空に囲まれたガラス張りのエレベーターで1階に着地し、冬の寒さで凍りそうな冷たいアスファルトの上を歩き始めると下腹部がずしんと鈍く痛む。今日は生理4日目で通常ならばそろそろ生理痛から回復しているはずだが、こんな時間まで残業をしたせいで子宮に負担がかかっているのだろう。
 社会が男女平等を推し進めているならば、女性は生理という身体的な荷物を抱えているのだから、その分の勤務時間を減らしてようやく男女平等になるはずで、形式的な平等ではなく実質的平等を目指すべきだ。あらゆる場面で、もっと女性にとって社会進出しやすい社会になるべきだ、と思いながら光に群がる虫のように緑のランプが点灯するカフェに吸い込まれていく。

「ハニーミルクラテ。ソイに変更、エスプレッソは少な目で」
 店頭の美しい人魚の風貌をしたAIにそう言ってカードをかざし、タンブラーを差し出すと画面に『77』の番号が七色に光る。
 右脇の緑色のランプの下に移動してしばらく待つと『77』の文字が光り、AI人魚によってハニーソイラテが注がれたタンブラーがわたしの手に渡された。
 わたしはそれを手にして、奥のほうにある広いソファに腰かけ、バッグから取り出した鉄剤を口に放り込んでから熱いソイラテで喉の奥に流し込んだ。
 鉄剤は速攻性がないため、しばらく目を閉じて頭を休めるも、貧血でぼうっとした脳の回転は鈍いままだ。経口摂取された鉄が体内のビタミンと結びついてほんの少量だけ腸で吸収された後、血液中の赤血球になって体内に酸素を運べるようになるまでには早くて2週間はかかる。そのため女性が生理で失った血液量が元に戻るのは鉄剤という医薬品を用いても最短で2週間はかかるのだ。その間身体的にハンデがあることを世の男性は知っているのだろうか。男女平等の社会で働く女性の肉体的な負担についてはまったくもって平等ではないという事実をもっと広く理解されるべきだと思うのだが、その真っただ中にいるキャリア女性たちは日々目の前の業務をこなすことで精一杯のため、男性社会における女性の働き方改善を訴える余裕すらないのが現状だ。
 そんなことを思いながら、柔らかなソファにお尻を沈めて、遠くから少しずつ押し寄せてくる睡魔にすこし身をゆだねた。店内の暖房とあたたかなソイラテが下腹部をあたため、痛みが和らぐのを待ちながら、頭のもう片隅では今日もウルフは花束を持ってきてくれたのだろうかという期待に胸が躍っている自分をたしなめていた。毎晩帰ると必ずドアに立てかけられている大きな白いカスミソウの花束を手に取って香りを胸いっぱい吸い込むことが、今ではもうわたしの生きがいになっていた。とくに今夜のように残業と生理痛で疲れ果てた日にはそれがわたしの心のよりどころだった。そして、わたしが寝付くまで、マンションの入り口でこちらを見上げているウルフの姿が…。
 だめよ。
 だめだめだめ!
 ウルフのことは忘れたつもりだったし、わたしの過去の記憶から抹殺したつもりだった。彼を無視することは、わたしの人生計画において今いちばん大事なルールなのだ。
 連絡先の消去し、着信拒否設定もし、今後一生関われないようにしたはずなのに、なぜわたしの頭から消えてくれないの?!
 そのとき、目の前のソファに誰かが座った音がして目を開けた。
 ヘーゼル色の目がわたしの顔をのぞきこんでいた。
 薄暗い店内でも琥珀のようにうっすらと輝いているこの色。どこかで見た色。
 そして、傲慢な性格が滲み出ているような広い肩幅にグレーのコートをひっかけていて、片手には松葉づえが握られている。
 そして、長い脚にはめられた白いギプスがまぶしい。
 その男は口元にかすかな笑みを浮かべた。
 「お目覚めかな? お姫さま」

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登場人物紹介

ウルフ 

男。大学三年生。リリィがひと目ぼれした相手。

リリィ 

女。大学四年生。このお話の主人公。

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